その後・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 08:55 UTC 版)
「校長着任拒否闘争」の記事における「その後・エピソード」の解説
事件当時の高教組書記長である中西績介は、懲戒免職処分の後、1976年旧福岡4区から日本社会党公認で衆院選に出馬し当選。1996年(平成8年)自社さ連立政権第1次橋本内閣の国務大臣に就任したことで、国会予算委員会において野党議員がこの闘争事件について質問することとなる。 「昭和41年10月21日、半日ストを皮切りに、15回に及ぶストライキを指示、決行させ、文部省に対し闘争を激化させ、教師に対してストライキ参加確認書に署名を執拗に求め、このストライキに参加しない教師や組合脱会者を村八分にした、こういうふうに福岡県の教師の人たちは言っておりますが、これは間違いない事実ですか。」「信頼関係があれば、ピケを張ってもいいし、校長が入ってくるのを要するに阻止してもいいし、あるいは教頭の机を表に出しちゃって、職員会議だといって教頭の言うことを聞かないで、それで、その教頭じゃない、勝手に組合員がつくった教頭の指示に従って、欠席届を出したり、いろんな事務連絡をやったり、そういうことが信頼関係があればそれで構わないというんですか。何でもいいということなんですか、信頼関係があれば。」「長い間のあれじゃなくて、あなたが今までやってきたことは間違いだった、そうやって認められて謝罪されるんですか、それなら。どうなんですか。いや、国民にですよ。福岡県民にですよ。あなたのとった行動について認めるんであれば謝罪するんですね。」 などの野党議員の質問に「現状を認めています。」「現状を認めているわけですから、これ以上のものはありません。」を繰り返した。
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