かいほう説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 06:11 UTC 版)
「ほう」と読む説は、「珎」は「寳」の異体字であり、「天平勝寳四年」を「天平勝珎四年」と表記している事例のほか、『東大寺献物帳』に「寳」の意で「珎」を用いている事例があることや、「寳」は「貨幣」の意であることによる。そもそも和同開珎は621年に初鋳され300年以上にわたり唐および周辺諸国で広く流通した開元通寳を模倣しており、和同開珎の「開珎」は開元通寳を略したものと推察されること、引き続き鋳造された萬年通寳をはじめ、皇朝十二銭、その後流通した宋銭、元銭、明銭および江戸時代の銅銭の全てが「寳」であることなどを根拠にしている。 狩谷棭齋は、『銭幣攷遺』で「珎」字を「寳」の省字とする説を唱え、中川積古斎は安政2年(1855年)に『和漢稀世泉譜』で和同開珎は「和銅開寳」の略であるとしている。 原三正(1973)は、小橋川(1973)の説を痛烈に批判し、円形方孔銭の四字銭文では開元通寳以降、日本・中国・安南・朝鮮・琉球を論ぜず寳字が末尾に無いものは正用銭には一枚もないとする。「珍」の第一義は「メズラシ」で後に転じて「タカラ」の字義が生じたが、銭貨の意味は持ち合わせていない。 相沢平佶(1973)も小橋川(1973)を批判し、(一)珎は璽の略字が本義、(二)珎は寳の略字、(三)字形の近似より珍と通用、の場合があり、「天平勝珎四年」は(二)の用例、「国家珎寳」は(三)の用例で、開珍説論者は(三)のみの用例しか論じていないとした。開宝論は帰納法、開珍説は演繹法であり、漢字漢文に精通している人は開宝論者だとした。また神功皇后は「ジングウ皇后」であり、「ジンゴ皇后」ではなく、小橋川(1973)は誤読していると指摘した。 今村啓爾(2001)は、銀銭と銅銭は全く同型に造られ、銀銭に「和銅」を使うのは抵抗があった。銀は鋳造時花咲き(spitting)を起しやすく、始めに鋳造された銀銭を考慮して「寳」の代わりに「珎」を使用したと考えられる。また「珎」の用例は多数決の問題でなく、一例でも「天平勝珎四年」の用例があることは重要であるとした。
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