おかめひょっとこ踊る指先から枯れて
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季 語 |
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冬 |
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前 書 |
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評 言 |
「指先から枯れる」という現象を目の当たりにしたことがある。私の曾祖母が他界した時のことなのだが、既に九十六歳であり、老衰のような死に方だった。呼吸がだんだん粗くなり、脚はむくんで来るのだが、指先は言葉通り「枯れて」ゆくのである。丸みを帯びていた指が、水分を徐々に失って硬くなり、黒く尖った骨の形になってゆく。心臓の力が衰えて、先端部にまで血が通わなくなるのかもしれない。そうやって、身体の部分部分が少しずつ死んでゆき、やがて全身が動かなくなるまでの、長いとも短いとも言えない時間。その様子を、当時高校生だった私は、何ともつかぬ親近感を持って見ていた。 私の家系は比較的長命で、曽祖父も祖父母も九十歳を超えて死んでいる。その兄弟達も、戦死などを除いては、みな長生きだったから、私は、年寄りの臨終に多く付き合っている方なのだろう。それらに共通した思い出として、この「時間」の存在がある。親族たちが枕元に集まって、死んでゆく個体と対面しながら、「死の尊厳」を感じるでもなく、それほど悲しいとか辛いといったこともなく、それでいて何となくお互いを理解し、安心感を享受できる幾許かの時間。それを与えられることが、長寿者の特権なのかもしれない。 掲載句の「枯れて」も見事な演出を見せている。「おかめひょっとこ」というモチーフの滑稽さや、「踊る」という言葉に託された生命の躍動感が、あれよと言う間に、死の世界へ引きずり込まれてゆく。まるで落語の落ちがストンとくるように、両極端にあるイメージの落差が絶妙なテンポで埋まってしまい、その隙に作品は、読者の心にひとつの疑問を投げかけて行く。そして、そこに漂う「微妙な時間」。生が衰えるまでの静かな時間の存在を、作者は確かな視点を持って見つめている。その時間を死者と分かち合えるだけの心の余裕を、私たちはもしかしたら失いつつあるのかもしれない。 |
評 者 |
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備 考 |
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