おいたちと拉致
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:31 UTC 版)
「アノーチャ・パンジョイ」の記事における「おいたちと拉致」の解説
パンジョイは1955年、タイ北部のチエンマイ県 サンカムペーン郡の農村に生まれた。彼女の父ソム・パンジョイは朝鮮戦争の退役軍人であった。母は彼女が子どもの頃に亡くなり、姉もいたが夭逝した。父のソムは彼女の身に起こったことが何であったのかが明らかになる3か月前に死去した。 高校卒業後、彼女はバンコクに移り、さらによい仕事を求めてマカオ(当時はポルトガル領)に移り住んで、2〜3カ月、現地のホテルでマッサージセラピストとして働いていた。 1978年7月、彼女は地元の美容院に行くと友人に告げ、アパートを出た。チャールズ・ジェンキンスの The Reluctant Communist (消極的な共産主義者)と題する本には、パンジョイによって彼に語られた拉致の事実が記されている。パンジョイは「自称日本人」観光客の男をボートツアーに連れて行き、ガイドすることに同意した。7月2日、彼女は近くの海岸で待ち伏せされ、無理やりボートに乗せられて拉致され、北朝鮮に連行された。 チャールズ・ジェンキンスの日本入国後の証言では、パンジョイの勤務中、数人の客から、もう数日でマカオから日本に帰国するので一緒に写真を撮りに街に出てくれと頼まれ、上司にもそうするように命じられた。職務命令であるところから、パンジョイは客とともに外出した。数人の客は、昼間は海岸などで写真撮影をしていたが、夜になると急に彼女を襲い、縛り上げ、猿ぐつわをした上で、注射を打ち、彼女を深い草むらに放置したまま車でどこかに消え去った。1〜2時間経過すると、車が戻ってきて、どこからか連れてきた別の2, 3人とともに彼女を担ぎ上げ、丘を越えて農村を通過し、船に乗せた。農村を通過する時、彼女がうめき声をあげるので、連中は声を出せば殴って気絶させると脅した、と彼女は語っていたという。 アノーチャ・パンジョイは、乗せられた船は必ずしも大きくなかったと語っているが、いずれにしても、彼女は甲板の下の船室に放り込まれ、そこで2, 3日を過ごした。3日目には、洗濯のために着ていた服を脱がせられ、その翌日、船が北朝鮮の海岸に接岸した。アノーチャはそれがどこか分からなかったと述べていたが、ジェンキンスは清津港ではないかと考えている。
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