『K-ration』の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 17:59 UTC 版)
「アンセル・キース」の記事における「『K-ration』の開発」の解説
1936年、ミネソタ州ロチェスター(Rochester, Minnesota)にあるメイヨー財団(The Mayo foundation)で働かないか、との申し出を受けたキースは、ここで生理学の研究を続けた。1年後、キースは「ここでの学術研究は、臨床的な『医療行為』の二の次であり、ブリッジ遊びに耽っている『知力の面で窮屈な環境』である」と言い残してメイヨー財団を去った。メイヨー財団を去ったのち、1937年にミネソタ大学(The University of Minnesota)で生理学を教えるにあたり、同大学にて生理学衛生研究所(The Laboratory of Physiological Hygiene)を設立した。人類生物学(Human Physiology)における初期の研究では、キースはアメリカ陸軍需品科(The Army Quartermaster Corps)での軍務に服した。最長2週間に亘り、携帯が可能で、必要なだけの摂取エネルギーを提供し、腐敗が起こりにくい配給食の開発に取り組んだ。この配給食の開発には動揺が起こった。キースの同僚であるエルスワース・バスカーク(Elsworth Buskirk)は以下のように述べた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}アメリカが第二次世界大戦に突入するかと思われたとき、キースはシカゴにある需品食品容器研究所(The Quartermaster Food and Container Institute)に向かい、非常用糧食(Emergency Rations)について尋ねた。「そんなことは専門家に任せておけばいい」と言われた、との話だ。だが、キースはその忠告を無視してウィリアム・リグリー・ジュニア(William Wrigley Jr.)の事務所に向かい、非常用糧食の開発資金として10000ドルを獲得した。その後、キースはスナック菓子会社のクラッカー・ジャック社(Cracker Jack Company)に向かった。彼らは資金は提供してくれなかったが、防水性能のある小箱の構想をキースに教えた。その結果、密封状態のクラッカー・ジャック・ボックスに収納された配給食ができあがった。 配給食の基本設計が完成した直後、アメリカ海軍は、間に合わせのもので携帯可能な食料源たり得るどうかを決定するため、全米研究評議会を通じて水兵向けのK-rationの試験に資金を提供した。ミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)にある食料雑貨店から、堅パン、ドライソーセージ、ハード・キャンディー、チョコレートを調達した。最終的な配給食はキースが考えていたものとは異なっていたが、収納される食料の多くはキースが最初に考案したものが採用された。配給量は28オンス(約794グラム)であり、1日につき、3200kcalの摂取エネルギーを摂取できる。『K-ration』の名前はキースとは無関係である、と主張する情報源もあるが、多くの歴史文献は「『K-ration』はキースの名に因んで付けられた」とする主張を支持している。この配給食は好結果を示し、一時的な栄養補給以上の目的で使用されることが多くなり、軍事栄養における重要な食料品となった。
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