『見聞集』と向崎甚内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:27 UTC 版)
詳細は「見聞集」および「向崎甚内」を参照 『北条五代記』の著者・三浦浄心の子孫の家に秘書として伝えられた『見聞集』は、化政期頃から写本で流布し、明治期以降、1901年、1906年、1912年、1916年と、たびたび翻刻が刊行された。 『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領は、みな昔有名だったいたづら者、風魔の一類らっぱの子孫どもです。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたが、その後、向崎甚内も「大盗人」だったことがわかり、慶長18年(1613年)に浅草原で処刑された、との逸話を載せていた。 向崎(高坂)甚内については、『見聞集』が流布したとみられる時期より前の享保17年(1732年)の『江戸砂子』に、浅草・鳥越で処刑された後に瘧(マラリア)の神とされるようになったことの紹介があり、馬場文耕『皿屋敷弁疑録』などによって、武田の遺臣、『番町皿屋敷』のお菊の父、辻斬りをして逐電し諸国を放浪した、などの後伝が発展していた。
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