『中論』における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 14:39 UTC 版)
ナーガールジュナの二諦への言及は、『中論』の24章においてなされている。 まず、『中論』においてそれまでに(帰謬法を通じて)提示された「空」思想に対する、論敵達による批判が、24章冒頭の1-6節において示される。すなわち、「一切が「空」であるならば、釈迦の説いた四聖諦も四向四果も存在しないことになり、三宝(仏法僧)も、世俗の一切の慣用法をも(すなわち、全ての区別・秩序・規則を)破壊することになってしまう」という批判である。 それに対して、ナーガールジュナが7節以降に反論を開始する。ナーガールジュナは7節において、論敵達は空における効用(動機)と、空そのものと、空の意義を知らないと述べる。そして8-12節において、二諦説が提示される。 (8) 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。〔その二つの真理とは〕世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。 (9) この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。 (10) 世俗の表現に依存しないでは究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。 (11) 不完全に見られた空は知慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の咒術のごとくである。 (12) それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されえないことを考えて、聖者(ブッダ)が教えを説示しようとする心はやんだ。 — 『中論』24:8-12 その後、13-40節において、むしろ「空」「無自性」こそが、あらゆる縁起・存在・果報を基礎付けているのであり、「空」「無自性」を否定・批判する論敵達こそがむしろ諸々の縁起・存在・果報を破壊しているのだという主張が続く。
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