『ウェイ・ビヨンド・ブルー』(1995年 - 1996年)
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「カタトニア (ウェールズのバンド)」の記事における「『ウェイ・ビヨンド・ブルー』(1995年 - 1996年)」の解説
バンドは、プロデューサーのポール・サンプソンとともに新アルバムの制作に取り掛かった。エヴァンはアレッド・リチャーズを、自身がスーパー・ファーリー・アニマルズに加入するために脱退後の後任のカタトニアのドラマーとしてサンプソンに紹介していた。レコード会社はバンドを売り出すため、有名カメラマンのゲレッド・マンコヴィッツにマシューズの写真を撮らせた。レコード会社はその写真を使用することを望んだが、マシューズもバンドもその写真を嫌った。ペプシTシャツを着てワインを飲んでいるマシューズの白黒写真は、通信社のスタッフに撮られたもので、ワーナーはその写真の使用を許可した。バンドはコーンウォールのスタジオで録音したが、マシューズとロバーツの間で意見の相違が発生した。その後、サンプソンは「スウィート・カタトニア」のアレンジの方針で口論の結果、プロデューサーを解雇された。 バンドが地道にライヴ演奏を始めたときに、音楽評論家たちは驚きで応答した。一方、シングル「スウィート・カタトニア」の発表は、新しいプロデューサーが見つかる1996年1月まで待たなければならなかった。スティーヴン・ストリートが初めてバンドに会ったのは、ロンドンのメイスン・ルージュ・スタジオで収録をするときだった。マシューズが後に彼はバンドメンバーの考えを考慮していたと語ったとおり、バンドメンバーはサンプソンより彼と働くほうがはるかにやりやすいことがわかった。彼らはアルバムを録音後にライヴへ戻り、エヴァンがスーパー・ファーリー・アニマルズに加入するためにバンドから去り、リチャーズと入れ替えられた。彼らは2人目のギタリストとして、Y-クライフの元メンバーであるパウエルを探した。パウエルはスーパー・ファーリー・アニマルズの音楽技師としてこの時まで働いていた。 アルバム発表後、カタトニア・ファンクラブ用に「ブリード」を発表した。それは「Blow the Millenium, Blow」や「Beautiful Sailor」も収録されているビニール盤で、全会員に送られた。1996年1月18日に、シングル「スウィート・カタトニア」が発売された。それは初めて全英シングルチャートにチャートインし、最高位61位を記録した。MRMはヨーロッパ全体にバンドを売り込むため、コンピレーション・アルバム『The Sublime Magic of Catatonia』を発売した。バンドはリバプールのバンド・スペースのサポート・アクトとしてイギリスをツアーし、4月22日にシングル「ロスト・キャット」(Lost Cat) を発表した。このシングルはトップ40にぎりぎり入れない、最高位41位を記録した。ツアーの一部として、バンドはフェニックス音楽祭やマッドストックなどいくつかの音楽祭に出演した。 カタトニアはシングル「ア・ロット・トゥ・アンサー」(You've Got a Lot to Answer For) でラジオでの露出が増え、このシングルは1996年9月にバンド初のトップ40を記録した。しばらく遅れて、アルバム『ウェイ・ビヨンド・ブルー』(Way Beyond Blue) が、9月30日に発表された。そのアルバムには12トラックがあり、そのうち何曲かはEPやシングルB面ですでに収録されていた曲だった。アルバムの成功の裏では、問題も発生していた。それは、他の誰かと会っていたロバーツとマシューズの関係で、その関係は壊れてしまった。2人は関係が壊れていてもバンドを保ち、ともに働き続けた。ワーナー・ブラザース・レコードは『ウェイ・ビヨンド・ブルー』から「ロスト・キャット」をアメリカ合衆国でシングルカットするつもりだったが、レーベルの問題からできなかった。
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