「河内王朝」の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 07:09 UTC 版)
応神天皇8年、息長杭俣王には世継ぎとなる男子がいなかったため、若沼毛二俣王が弟女真若伊呂弁王に婿入して息長氏を継いだ。二人の間には、大郎子、別名「大々杼王」、忍阪大中女命、田井中女命、田宮中女命、琴節郎女、別名「衣通女命」、取売王、沙禰王の三男四女が生まれた。同天皇40年、息長杭俣王は118歳で亡くなり、「皇位門」の向かいにある「宇岐石山」に葬られた。この皇位門というのは、天皇の玉座がある紫止雲殿の門であるために名付けられた。 仁徳天皇2年、皇后息長真若中女命が82歳で亡くなり、「上田広住陵」に葬られた。同天皇10年、若沼毛二俣王は御手洗池と依羅池の「鸇」と「鸇養部」5戸を天皇に献上した。今はその地を「鸇縄手」と呼ぶ。天皇はこの地で鸇を飼育させ、鸇養部5戸の内の一人に「鸇養大伴」の名を賜った。現在の鷹合村はこれに由来する。 大々杼王は仁徳天皇の勅命により「淡海の息長君」となり、弟の沙禰王は息長家を相続し、忍阪大中女命は雄浅津間若子宿禰尊の皇妃となった。 この時代、呉国の人が来朝し、その一部を大手門の外に住まわせて呉服物を織らせた。これを「服部」という。後に「呉人の村」とも「唐人部」ともいう。また、この時代、稲作が立て続けに水害を被ったため、この呉人たちを使役して堤防を築いた。本郷から大地の西堤までを「呉堤」というのはこのためである。 反正天皇元年、若沼毛二俣王が133歳で亡くなり、「上田の東小野御墓」に葬られた。 允恭天皇の時代、息長沙禰王の娘・真若郎女は淡海の息長大々杼王の子・彦主人王に嫁いだが、妊娠4ヶ月で百々石城に帰り、同天皇39年、沙禰王が新たに造営した産殿において大々杼命が生まれた。この産殿は百々石城内にあり、字を「御産殿」といったが、転じて「産田」と呼び、今は「三田」という。 雄略天皇元年、息長沙禰王は真若郎女と大々杼命を淡海の息長彦主人王の許に送り届けた。しかし、真若郎女が早世したため、大々杼命は継母の「福井の振女」の許で成長し「越前三国の君」と号した。同7年、忍阪大中女命が崩御し、「讃野皇山御陵」に葬られた。彼女が御幸した際の御殿があった地を古くは「忍阪」といったが、今は「大阪」という。また、この山の東に「田井の媛」という字があるが、この地に田井中女命の住殿があり、河内国志紀を領有し「田井郷」と称したのが、現在の田井中村である。また、元々住んでいたところはには御名代として「田井部」を置いたが、現在は畑となって「田井島」という。この田井部が移住して「河部」を称し、現在東喜連村の南に住む「河村」を称する人はこの田井部の子孫である。
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