「ラコビスタン」の支配者
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「ネストル・ラコバ」の記事における「「ラコビスタン」の支配者」の解説
ラコバは1920年までクバーニ・黒海地区で革命を指導したが、翌1921年3月、エフレム・エシュバ(ru, 議長)らとともに革命委員会を組織してアブハジアの立法・行政を掌握し、アブハジア社会主義ソビエト共和国を成立させた。ラコバは2月から翌1922年2月まで副議長および陸海軍委員を務めた。ほどなく同地がイギリス軍により占領されると、ラコバは地下へ潜伏したが、その際に身を寄せていた貴族の家庭の娘であるサリヤ・ジフ=オグリ (ru) と恋仲となった。サリヤの家族は二人の結婚に反対したが、ボリシェヴィキ仲間のラヴレンチー・ベリヤとセルゴ・オルジョニキーゼの取り成しによってネストルとサリヤは同年に結婚した。 ラコバは1922年2月から1930年4月17日まで、最初で最後のアブハジア共和国人民委員会議議長を務め、その後同日から晩年までアブハズ自治ソビエト社会主義共和国中央執行委員会議長を務めた。また、グルジア社会主義ソビエト共和国・ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国・ソビエト連邦の各中央執行委員会メンバー、およびグルジア共産党中央委員会メンバーを歴任した。ボリシェヴィキの第13回(ロシア語版)・第15回(ロシア語版)・第16回(ロシア語版)・第17回大会(ロシア語版)にも出席している。 この頃にラコバはベリヤをOGPUに取り立てるようスターリンに口添えしている。党中央のオルジョニキーゼやセルゲイ・キーロフはこの人事に反対したが、ベリヤが信頼に足る人物であるとラコバが保証したため、スターリンはその反対を無視した。 ラコバは、スターリンの親友であるという威光から公然とグルジア共産党と対立するようになり、異例に寛大な方針でアブハジアを統治するようになった。ラコバの下でアブハジアの富農や豪族は保護され、農場の集団化も停滞した。また、1925年にはモスクワを追われた病身のレフ・トロツキーとその妻ナターリヤ・セドワ(ロシア語版)が、1930年代にはロマノフ朝と関係の深かったアブハジア貴族のシェルワシゼ家(ロシア語版)が、ラコバの下で保護された。ラコバが支配する小さな独裁国家と化したこのアブハジアは、同時代のボリシェヴィキによって「ラコビスタン」とも呼び表された。 それでもなお、スターリンの真の盟友としてダーチャで共に歌い合う仲であり続けたラコバについて、スターリンの養子であるアルチョム・セルゲーエフは後に、彼が家にやってくると「家の中に光がさし込んだようだった」と語っている。また、ラコバはスターリンやモスクワの他のカフカース人にタンジェリンを定期的に送ることも欠かさなかった。
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