「きよめ」身分の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/10 18:47 UTC 版)
1016年の『左経記』によれば、検非違使が御所の近くに死体があると天皇をその穢れから守るために、河原人に処理させていたとある。 特定の賎民を指して「きよめ」と呼んだ最初の例は鎌倉時代前期、1239~1240年頃の成立かとも推定されている藤原信実編『今物語』に治まる一説話で、それによると、五位の蔵人が京都の一条にあった革堂(こうどう)に参詣した時美女に会い、後をつけていくとその女は「一条河原」(鴨川の一条河原)の「きよめが家(きよめの家)」に入ったという。ここにいう「きよめ」を彼是の同時代の史料・資料を併せ考えると「河原」に住んでいた「穢多」と推察され、鎌倉末の国語辞書『塵袋』には「キヨメヲエタト云フ」とある事に一致する。 特に中世後期には「きよめ」の語は賎民の一部を指す呼称として世間一般に通用するようになり、近世初頭の近畿地方の一部では太閤検地の段階で散所と共に「かわた(皮太・革多)」の呼称へ変化した。 きよめの仕事である死体の処理とかわたの役務であった皮革業を関連付ける事は容易である。
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