テクニカラー
撮影はRGB三原色分解ネガとし、上映用のプリントはYMC(イエロー、マゼンタ、シアン)の色素と墨版を印刷する「転染法」のカラー写真方式。後に撮影は通常の「モノパック」となるのだが、現在は廃れている。
(執筆:オーディオビジュアル評論家 吉田伊織)
※この情報は「1999~2002年」に執筆されたものです。
テクニカラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 04:40 UTC 版)
テクニカラー(英語: Technicolor)はカラー映画の彩色技術を開発した企業またはその彩色技術の通称である。フィルムの現像、プリント、テレシネなど、ポストプロダクションを行っている。1916年にアメリカ合衆国で起業し、その後数十年にわたり進化を続けた。現在は現テクニカラー社の一部門となっている。同社で処理された映画作品は、クレジットでCOLOR BY TECHNICOLORと表示され、テクニカラー作品などと呼ばれることが多い。 同業のデラックス社とは長年のライバル関係にある。
- ^ US patent 1208490, issued December 12, 1916
- ^ アメリカの施設閉鎖後もイギリスでは78年、イタリアでは80年までプリント製作が行われていた。
- 1 テクニカラーとは
- 2 テクニカラーの概要
- 3 概要
- 4 関連項目
テクニカラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:15 UTC 版)
「ジョン・ヘイ・ホイットニー」の記事における「テクニカラー」の解説
ジョンはブロードウェイなどのミュージカルにも様々な出資を行っており、1931年にはピーター・アーノの『Here Goes the Bride』に10万ドルの投資を行ったものの、失敗していた。一方で1939年の『Life with Father』では一転して大きな収益を上げている。 1934年のフォーチュンのテクニカラーに関する記事によれば、ジョンがこの頃から映画産業に関心を持っていたとされる。テクニカラーは1932年に三色法による世界初のカラーフィルム製造に成功したフィルム会社で、RKOのマーリン・コールドウェル・クーパー(Merian Caldwell Cooper)はこの技術の将来性を確信して、ジョンへ同社への投資を勧めていた。そしてジョンとRKOの出資により、1932年にパイオニア・ピクチャーズが設立された。ジョン、および出資を持ちかけられたコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーは、同社の株を合わせて15%保有していた。 また、デヴィッド・O・セルズニックの制作会社へ87万ドルもの投資を行っており、同社の取締役会長にも就任した。同プロダクションの制作した『風と共に去りぬ』『レベッカ』にも出資しており、その製作費の半分はジョンの資金であった。
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テクニカラー(Technicolor SA)
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「テレシネ」の記事における「テクニカラー(Technicolor SA)」の解説
ボッシュ社・フィリップス社とテレシネ事業は各社を渡り歩き、現在は同社で開発・販売を行っている。光源装置はキセノンランプ、撮像装置はラインCCDを採用しており特徴としては拡散光効果によりフィルムの傷などを低減している。
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「 テクニカラー」の例文・使い方・用例・文例
テクニカラーと同じ種類の言葉
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