Il-2 (航空機) 概要

Il-2 (航空機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 14:05 UTC 版)

概要

ベルリン上空を飛行するIl-2(1945年)

Il-2は1938年にソビエト中央設計局(TsKB)の設計主任、セルゲイ・イリューシンを長とする設計チームが開発した TsKB-55ЦКБ-55)を発展させた対地攻撃機である。当初はBSh-2БШ-2ベーシャー・ドヴァー;「БШ」は「Бронированный штурмовик」すなわち「装甲されたシュトゥルモヴィーク」を意味する)として開発され、その後、採用に伴い機種は「重シュトゥルモヴィーク」(Тяжелый штурмовик)と改められた。

原型機のTsKB-55は1939年に完成して、10月2日に初飛行した[1]。その後、軽量化単座型のTsKB-57が1940年10月に初飛行し、各種試験で高い性能を示した。そのため、試験審査の終了した1941年6月より「Il-2」と改称されて直ちに量産が開始され、実戦部隊への配備が進められた。

設計

Il-2投影図

装甲軍用機自体は第一次大戦中にすでに追求されている。ただしエンジン出力が貧弱、装甲の重みにより完成した機体は鈍重で運動性能が非常に低かった。このため、実用レベルに達したものはごくわずかであった。

ソ連において、装甲された攻撃機の開発は1920年代半ばから開始された。ポリカールポフ R-5を改修したTsKB-6、改良型のTSh-2、1933年には低翼単葉固定脚のTSh-3が作られた。1938年2月、セルゲイ・イリューシンは装甲を備えた新しい攻撃機の設計案を提示した。彼のアイデアは認められ、原形機3機の製作が指示された。

Il-2は複座型として開発が開始された。イリューシンは、Il-2の胴体のほぼ前半分を鋼板で作った。通常の航空機のように後から装甲を取り付けるのではなく、機体の外板そのものがモノコック兼装甲であり、骨格構造、外板、防漏ゴム、装甲板を省略でき、これにより軽量化を図っている。このような装甲板を作ることができたのは、プレス加工で曲面を形成できる高張力鋼が開発されたからである。設計が進むにつれ、重量増と航続力の不足から仕様を単座に変更した。装甲厚はエンジン前部が6 mm、エンジン側面が4 mm、コックピット側面が6 mm(後に8 mmに増強)、操縦席背面が12 mmであり、これらの装甲の重量は700 kgを超えた。イリューシンはこの装甲部分にエンジン、冷却器、燃料タンク、配線、補機類、パイロットを配置した。操縦席の背中と座席下と計器盤の前に燃料タンクが配置されており、パイロットは燃料に包囲されて飛んでいる状態であった。風防の前面には厚さ64 mmの防弾ガラスが設けられた。

冷却機構は特徴的で、冷却用空気は被弾確率の低いエンジン上面の吸気口から導入され、ダクトを通じて胴体内の冷却器を通り、胴体下方へ排出される。ただし冷却能力は不足気味であり、滑油冷却器(オイルクーラー)は胴体に設置できず、装甲したうえで胴体下面に設置された。

Il-2の胴体後半と垂直尾翼はジュラルミン不足のため木材デルタ合板を使用した。なお大戦後期には、供給量の増加したジュラルミン製で約100 kgの重量軽減に成功した胴体部品も作られたが、生産ラインの関係から大戦中にこれを採用した機体は少数にとどまり、多くは戦後になってからデルタ合板製胴体を置換するパーツとして使われている。

主翼は38.5平方メートルと、艦上攻撃機並みに巨大な翼面積を持つ。これは大重量の機体を飛ばすためであり、初心者でも安定した飛行ができた。後の改修により、重心位置を後退させてバランスをとる必要が生じたため、イリューシンは外翼に後退角を持たせた。大きな主翼と重量のため、本機のローリング性能や速度性能は決して高くなかった。爆弾槽はこの翼内部に設けられ、100 kg爆弾を専用に用い、最大搭載量は600 kgである。さらに翼内にShVAK 20mm機関砲2門、ShKAS 7.62mm機銃2丁を備えた。これは後に機関砲が強化され、VYa-23 23 mm機関砲に換装された。主脚は後方引き込み式であり、格納後もタイヤの一部がフェアリングの外にはみ出していた。これは不時着時に機体の損傷を抑えるためである。主脚の作動には空気圧・または手動を用いた。なお後退角のついた外翼部は試作型では全ジュラルミン製、量産型では木製桁に合板張り、後に金属桁にデルタ合板張り、材料の供給が安定した後期には全ジュラルミン製に戻っている。

エンジンは、原型機のTsKB-55では当初AM-34FRNを搭載していたが、生産終了に伴いAM-35に換装された。これはAM-34FRNから派生し同一の寸法をもつ、離昇出力1,350馬力の液冷エンジンであった。さらに1940年10月には、低空での出力を増強したAM-38(離昇出力1,500馬力)がTsKB-57に装備され、初飛行した[1]。最終的にこれが生産型にも搭載されることとなり、全備重量6トンの屈強な襲撃機として完成した。1943年1月からは、離昇出力を1,700馬力に高めたAM-38Fを搭載している[5]

運用と改良

Il-2の運用国

量産初期のIl-2は軽量化のため、試作型TsKB-55にはあった銃手席を廃した単座機であったが、後方機銃がないことから敵戦闘機に反撃できず損失が激しかった。このため前線部隊では後方に向けた固定機銃を装着したり、時限信管付きの迫撃砲を撃てるようにしたり、燃料タンクの代わりに仮設の後方銃座を設けた機体もあった。そこで改良が行われ、装甲を強化、複座化し、12.7mm後方機銃を装備したIl-2MИл-2М)が生産された。生産ラインの変更、重量増、重心位置の移動の改設計などの手間から、全周防御が施され特に背面は12mmの装甲で守られた操縦席に対し、銃手席は後方からの銃撃から胸から下を守る6mm厚の限定的な装甲しか施されなかった。このため銃手の死傷率はパイロットの数倍に達した。完全な装甲防御の施されたタイプは戦争も末期になってからでなければ登場しなかった。

その後、主翼に途中から後退角がつけられたIl-2M3Ил-2М3)、37mm機関砲や45mm機関砲を翼下ポッドに搭載した重対戦車シュトゥルモヴィーク型、魚雷を搭載する雷撃機型、エンジンを変更した機体など、多くの派生型が開発・生産された。なお、Il-2MやIl-2M3等の名称は正式なものではなく、型を区別しやすくする為に後世に付けられたものである。

戦後はポーランドユーゴスラヴィアチェコスロヴァキアブルガリアモンゴルなどいくつかの国で使用されたが、多くの国では後継型のIl-10で代替され1950年代には退役した。また、朝鮮戦争でも中華人民共和国義勇軍機や朝鮮民主主義人民共和国軍機として使用された。


注釈

  1. ^ 全航空機史上最多はセスナ 172で、本機は2位であるが、セスナ 172が1950年代から2020年代まで長期にわたり生産を継続しているのに対し、本機の生産期間は第二次世界大戦中の1941~45年の数年である。

出典

  1. ^ a b c 世界の傑作機 No.129 Il-2 (2008), p. 24
  2. ^ Moore (2015), pp. 304-305 (Kindle版)
  3. ^ Moore (2015), pp. 307-308 (Kindle版)
  4. ^ LD NHK 飛行機の時代 5「第2次大戦の主役たち」
  5. ^ 世界の傑作機 No.129 Il-2 (2008), p. 29


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