狩野亨吉
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脚注
参考文献
- 安倍能成編 『狩野亨吉遺文集』 岩波書店、1958年。復刊1969年・1986年ほか
- 青江舜二郎 『狩野亨吉の生涯』 明治書院、1974年。中公文庫、1987年
- 鈴木正『日本の合理論 : 狩野亨吉と中井正一』現代思潮社〈現代新書〉、1961年
- 鈴木正『狩野亨吉の思想』第三文明社〈レグルス文庫〉、1981年。平凡社ライブラリー(増補版)、2002年
- 鈴木正『狩野亨吉の研究』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ・アーカイブズ〉、2013年
- 庄司進『危険な思想:狩野亨吉と安藤昌益』無明舎出版、2018年
- 鈴木久忠「狩野亨吉」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4。
外部リンク
- 狩野亨吉:作家別作品リスト - 青空文庫
- 東北大学デジタルコレクション - 狩野文庫データベースも検索対象
- 東北大学狩野文庫デジタルアーカイブシンポジウム「江戸に学び、江戸に遊ぶ」 - 東北大学附属図書館
- 狩野亨吉と九州大学 - 九州大学附属図書館
- 青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊 第1229夜
- 狩野氏図書記 - 国文学研究資料館蔵書印データベース 2021年5月2日閲覧。
学職 | ||
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先代 (新設) |
京都帝国大学文科大学長 1906年 - 1908年 |
次代 松本文三郎 |
注釈
- ^ 亨吉は漱石の要請により五高の教頭で務めた。亨吉は、小説『それから』の主人公「代助」のモデルになったといわれる。青江『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊
- ^ 亨吉の次の学長の新渡戸稲造と比較すると、亨吉は内向きで稲造は外を向いていたと評される。また、亀井高孝は「新渡戸先生はいだいであるが、その道を進む人はありえよう。しかし狩野先生のやうな人は再び出にくい」と記している。青江『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊
- ^ 富岡謙蔵とは富岡鉄斎の子であり、また、桑原隲蔵の子が桑原武夫である。青江『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊
- ^ 漱石の『吾輩は猫である』に登場する「苦沙弥先生」のモデルは狩野亨吉だといわれている。「狩野亨吉」『秋田大百科事典』(1981)p.203
出典
- ^ a b c 「狩野亨吉」『秋田大百科事典』 (1981) p.203
- ^ a b c d e f g h i 青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』:松岡正剛の千夜千冊 第1229夜
- ^ 労働観私論 ( III ) 三浦豊彦、労働科学 69巻、7号、1993
- ^ 狩野文庫データベース(東北大学デジタルコレクション)
- ^ “狩野亨吉文書”. 東京大学. 2024年1月17日閲覧。
- ^ 漱石の親友、元一高校長死去(昭和17年12月23日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p69 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
- ^ 『官報』第7614号「叙任及辞令」1908年11月11日。
- ^ 『官報』第7499号、「叙任及辞令」1908年06月26日。
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狩野亨吉と同じ種類の言葉
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