日本女子体育専門学校 (旧制) 学生生活

日本女子体育専門学校 (旧制)

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学生生活

塾生の1日

二階堂体操塾はトクヨ塾長を中心として塾生とともに創り上げていく共同体であり[5]、塾舎はトクヨの厳格さと慈愛に満ちていた[183]

二階堂体操塾は全寮制であり、塾の1日は朝の起床から始まる[184]。塾生は顔を洗った後、自室と分担場所の掃除を行い、徒手体操をする[145]。生徒の化粧は禁止されていた[185]。7時に朝食を自室で摂り、休憩をはさんで1時限目の授業が始まる[145]。食事の準備などの家事一切はトクヨの母・二階堂キンと住み込みのお手伝いさん2人が担当し、配膳は当番制で塾生が行った[186]。トイレに行く時間まで決められており、朝は起床後と朝食後に行くように求められた[47]。これは教師になった後、授業中に尿意を催さないようにするための訓練を兼ねたものだった[47]

「実質本位」を掲げ、女子高等師範学校が3年かけて教える内容を1年で叩き込むこととしていたため、チャイムを鳴らさず、出席簿も付けないという状態ながら、塾生は緊張感をもって授業に臨んだ[187]。1時限目の授業は、トクヨ塾長自らが指導する講義がほとんどであった[145]。外部講師は、決められた時間にきっちりとやってきて講義や実技を指導した[145]。午前の授業は11時までで、その間10時頃におやつが出されるが、おやつを食べるための休み時間はなく、塾生は実技をしながら食べていた[188]。雨天で屋外での実技ができなかった場合や、土曜日の夜は、「つぎあて」の時間に充当された[188]

午前の授業が終わると洗面、休憩をはさんで昼食となり、食後は13時まで昼休みであった[188]。昼休みは文字通り休むことが求められ、手紙を書く以外の行動は認められなかった[188]

午後の授業は13時から17時までみっちり詰まっており、午前中と同じく業間におやつが出された[188]。午後の実技もたいていはトクヨ塾長が自らダンスや棍棒などを指導した[188]。授業中にはトクヨが「○○にはこういう癖がある」と一人ひとりに講評を行い、面と向かって指摘されるため泣き出す塾生もいたという[188]。17時に授業が終わると夕食となるが、これで1日は終わらず、食後に英語などの授業が行われた[188]。英語の講師は東大の学生が務め、原書で物語などを読むというものであった[188]。授業以外にも、生徒を集めてトクヨがお話会を開くことも多かった[27]。お話会の内容は西洋の物語や人生論、イギリスでの生活などであった[27]。特に西洋の物語では、「ハムレット」、「リア王」、「オセロ」、「人魚姫」などを語り聞かせ、生徒は登場人物になりきって聞き入り、トクヨは語りながら感情移入して涙をこぼすこともあった[27]。トクヨの話は2 - 3時間に及ぶものだったと人見絹枝は回想している[189]。第1期生の証言によると、すべて終わるのは21時であったという[190]

授業が終わると寄宿舎へ帰った。寄宿舎では「足が曲がる」という理由で座ることが禁止されていた[158]

校外活動と外出・外泊

トクヨは校内での授業ばかりでなく、早慶戦の応援見学、東京市街の見物、講演会めぐりなどの校外での活動も多く取り入れた[122]。これは幅広い教養を身に付けさせることが目的であり、来客用の果物を買いに行かせるという名目で、千疋屋に行かせて銀座を生徒に見聞させることがあった[27]。生徒を外部の危険から守るため、土日の外泊は近親者宅に行くことのみ許可し、その前にはよく注意して聞かせた[191]門限も厳しく、時間ぴったりに閉門していた[47]。生徒は門限に遅れてしまった場合、走高跳の要領で助走をつけて門を跳び越え、ひらりと身をかわして校内に戻った[47]

校門は普段固く閉ざされており、用事のある者は横の玄関口に回って塀をノックし、小窓から顔を出した案内人の入校許可を得る必要があった[181]。この時、学校に関係のない人物と見なされると、号令練習で鍛えた大声で追い返されたという[181]

校外実習では、1934年(昭和9年)1月に新潟県岩原スキー場にて生徒が水着1枚でスキーや体操を行ったという記事が読売新聞に出ている[192]。記事によれば、松澤初穂の号令で生徒らは一糸乱れぬ体操を行った後、縦横無尽にスキーで斜面を滑走したといい、これを取材した稲葉特派員は「日本女性の未来に大いなる力強さを覚えた」と感想を綴っている[192]。記事中には「裸体スキー」という表現が用いられているが、その光景に不純さはなく健康美にあふれていたといい、日本では初めてだが北欧では盛んに行われていると報じた[192]

服装

体操塾のチュニック
着用者は人見絹枝(17歳)

塾生の服装は、開塾当時には規定がなかったものの、身体の健康を重視するトクヨは、開塾後直ちにチュニックを採用した[193]。トクヨの発行していた雑誌『わがちから』の写真に写る塾生は皆チュニックを着用しており[193]、体操服も日常着もチュニックにしていた[193][11]。東京女高師の教授時代には、「和服式体操服」を考案したことがあるものの、結局不採用となり、当時から生徒にチュニックを着せていた[194]。また安井てつに請われて東京女子大学で体操の授業を担当した際にも、体操服にチュニックを指定した[136]

体操塾で使うチュニックは、胸元がゆったりした普通のチュニックと、胸元を狭くし自由な呼吸を束縛する「似て非なるチュニック」の2種類あった[195]。チュニックはベルトで腰のあたりに固定し、肋木に逆さまにつかまる時には裾の近くでベルトを締めることでスカートの落下を防いだ[145]。このチュニックは、2019年(平成31年)に吉野作造記念館の企画展で展示され、企画展を報じた河北新報は「カフェユニホームにも見える」と表現した[196]

入浴

健康のため、毎日入浴させていた[191]。入浴時間は「敏捷性を身に付ける」という名目で1人3分しか与えられず、先輩と後輩の入浴が重なった場合は、後輩が先輩の背中を流す時間と自分の体を洗う時間を含めて3分で終えなければならないという厳しいものであった[47]風呂沸かしは当番制で、仕事が終わるとトクヨから金5銭と夜食が出されたため、生徒は進んで風呂当番を引き受けたという[191]


注釈

  1. ^ 正式名称はバーグマン=オスターバーグ体操専門学校(The Bergman-Österberg Physical Training College)であるが、学生は一般にキングスフィールド体操専門学校と呼んでいた[10]。以下、KPTCと略記する。
  2. ^ ただし、この言葉をもらった当時のトクヨは、東京女高師の体操専修科で最善を尽くすことが自らの使命であり、自分の学校を建てるなど絵空事にすぎないと考えていた[22]
  3. ^ 関西で建ててくれるならお金を出す」という話を聞いて乗り出すと誰も出してくれず、「自分の名前で学校を建ててくれるならお金を出す」と聞いてトクヨが自分の名前を下ろすことを提案すると話が立ち消えになってしまうという経験をトクヨは何度もしてきた[24]
  4. ^ 東京女高師では体操科のみの担当であり、理想とする人格教育を行うことが不可能であった[26]
  5. ^ 小田急小田原線参宮橋駅付近に当たる[33]。二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、京王線神宮裏駅(現存せず)が最寄駅であった[33]
  6. ^ 既婚者や子持ち、夫と別れた者でも例外的に認める場合があるが、なるべく複雑な義務のない者が望ましいとした[35]
  7. ^ その理由として末弟の真寿は、東京女高師教授時代に過労もいとわず日本全国からの講演依頼を引き受け続けた努力が結実したものと推測している[36]
  8. ^ 書類選考だけで仮入学させるため、適性のある者のみ本入学させることが責任ある教育者の態度だと考えたのであった[33]
  9. ^ 1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の取れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった[44]。『わがちから』によると1923年(大正12年)3月時点の1期生は49人であった[45]
  10. ^ 帰省中の1人と中途入塾の5人を除く[59]
  11. ^ トクヨは人見以外にも内田トハ、御笹政重、船田マツの3人を派遣した[74]。内田は東京女高師時代の教え子で、御笹と船田は体操塾1期生である[74]
  12. ^ 体専より先に存在した東京女子音楽体操学校が東京女子体育専門学校に昇格したのは1944年(昭和19年)のことである[79]
  13. ^ 戦前に学校法人という法人形態はなく、私立学校は財団法人が経営していた[83]。なお、現行の学校法人は財団法人の特殊形態と規定されている[83]
  14. ^ この年の入学者は90人で、体専史上最多となった[91]
  15. ^ 清寿は当時、仙台に家を建て仙台市学務課長としての職務に専念しようとしており、当初は渋ったが、美喜子の懇願と、若くしてトクヨの学校を継がされた美喜子の境遇を慮り、校長職を受諾した[105]
  16. ^ 生徒が反発したのは、トクヨから「女子体育は女子の手で」と教育されてきたことから、男性の清寿が校長に就任することに反対したという側面もある[105]
  17. ^ 時勢の問題だけでなく、美喜子が反発する生徒に熱弁をふるって反省を促したことと、清寿が「来たばかりで、海のものとも、山のものともわからないじゃないか。(中略)悪かったら君等の排斥を待つまでもない。僕の方から骸骨を賜る。」と語ったこともある[108]
  18. ^ この数値は海軍兵員の平均値であり、「国家の盛衰・存亡は女子にかかっている」という考えから、トクヨは女性の奮起を促すためにあえて比較対象として選んだ[53]
  19. ^ 2人1組で行う女児向けのダンス[152]
  20. ^ 2列円形で行う男児向けのダンス[152]
  21. ^ 1列円形で行う男女共通のダンス[152]
  22. ^ 任意の位置で個別に行うダンス[153]
  23. ^ 踵と爪先を使ったダンス[58]
  24. ^ トクヨの創作ダンス[136]で、3人1列になって行う見ばえのするダンスだった[58]
  25. ^ 1列円形で行う優美的な舞踊[58]
  26. ^ 宮本はトクヨの弟・真寿の友人である[162]
  27. ^ 今村は「林良富」と書いているが、おそらく林良斎の誤記である[174]。林は海軍軍医の出身で、体操塾創設当時から教鞭をとり、解剖学や救急療法などの授業を担当した人物である[121]
  28. ^ 独特の表現を多用したトクヨはこの3つを順番に、屋さん・フイゴ屋さん、水道屋さんにたとえた[198]
  29. ^ 1933年(昭和8年)に受けた読売新聞のインタビューで「日本の女は本来妻たり、母たるべきものなんですよ」と語り、妻になった以上は自我を忘却して夫に仕えるべきと述べた[181]
  30. ^ 広橋は毎年、走高跳の日本女子十傑でトップに入る選手であったが、最終選考会で西田順子に敗れて代表の座を逃した[215]
  31. ^ 大正時代の体操教員養成機関は通常、他科との兼修・併修を勧めていた[224]
  32. ^ 東京女高師の教え子の会の入学生が飛び飛びになっているのは、体操教員養成課程である第六臨時教員養成所家事科第一部(家事体操科)が、全生徒の卒業と入れ替わりに新しい新入生を募集するというシステムを取っていたからである[236]

出典

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