ロンゴロンゴ 起源

ロンゴロンゴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/14 09:44 UTC 版)

起源

口伝の伝承では、ホトゥ・マトゥア(Hotu Matu'a)、またはトゥウ・コ・イホ(Tu'u ko Iho)という名の、島の社会の伝説的創始者が、67の文字板を故郷から持って来たという(Fischer 1997:367)。彼らはトロミロの木のような島の固有植物をもたらしたとも考えられている。しかし、ポリネシアの他の地域や南アメリカにも、ロンゴロンゴに似た文字を持つ地域が見当たらないことから、ロンゴロンゴは島内部で独自に発達したものと思われる。1870年代、島の先住民の中で、ロンゴロンゴを読むことが出来た人がほとんど残っていなかったことから、極少数の集団しかこれを読み書きすることができなかったと思われる。確かに初期の訪問者達は、読み書きは支配者の一族や司祭達のみの特権であるという言い伝えを聞いている。そのような特権を持った人々は、ペルーから侵略してきた奴隷狩り集団によって拉致されるか、その結果島で発生した疫病によりすべて死んでしまったとも伝えられている[28][29]

文字板の年代特定

年代測定が直接行われた文字板はわずかである。「文字板 Q」(サンクトペテルブルク小文字板)は唯一、放射性炭素年代測定が行われた文字板であるが、判明したのは、1680年以降のいつか、ということだけだった[30][注釈 10]

年代特定の根拠となるのは、直接的な測定だけではない。「文字板 A」、「P」、そして「V」は、ヨーロッパの船の櫂(オール)に絵文字が刻まれていることから、18世紀から19世紀のものと特定することができる。オルリアックは2005年、「文字板 C」(ママリ文字板)の木材が、約15 mの木の幹から切り出されていることを計算によって突き止めた[注釈 11]。そのような大きさの木は、はるか以前にイースター島から姿を消しており、調査によりイースター島の森林は17世紀前半に消滅したことが分かっている。1722年にイースター島を発見したヤーコプ・ロッヘフェーン(Jakob Roggeveen)は、島の様子を「大きな樹木が欠乏している」と語っており、スペインの航海士フェリペ・ゴンザレス・デ・アエド(Felipe González de Ahedo)は1770年、「幅6インチ(約15 cm)ほどの床板に間に合いそうな木すら1本も見当たらない」と書き残している。1774年ジェームズ・クック(James Cook)の探検に同行したフォースター(Forster)は、「島には10フィート(約3 m)を超える高さの木はない」と報告している[31]

これらの方法はすべて、文字板の木材の年代を特定するもので、テキスト自体の年代を特定しているわけではない。しかし、Pacific rosewoodは耐久性に乏しく、イースター島の気候では永く残存しないと思われる(Orliac 2005)。一方、絶滅種であるイースター島産のヤシの木(Paschalococos disperta)を描いたと思われる絵文字も発見されており、花粉学によればおよそ1650年頃に島から消滅したとされているため、テキストが少なくともその時代まで遡るものであることを示唆している[30]

1770年のスペイン人上陸

アメリカのジョン・フレンリー(John Flenley)や、ポール・バーン(Paul Bahn)をはじめ、何人かの研究者は、ロンゴロンゴが1770年のスペインのイースター島上陸後、島の併合条約の調印にヒントを得た島の人々が、比較的最近に発明したものであると主張している(1992:203–204)。その状況証拠として彼らは、フランスの修道士、ウジェーヌ・エイロー(Eugène Eyraud)が1864年に報告するまで、ロンゴロンゴの存在を伝えた探検者がいなかったこと、スペインとの併合条約の調印の際に島の首長達が書いた絵文字が、ロンゴロンゴに似ていないことを挙げている。

このような仮説を唱える研究者達は、ロンゴロンゴがラテン文字や他の文字体系の模倣であると主張しているのではなく、文化人類学でいうところの「文化の伝播」(trans-cultural diffusion)によって文字という「概念」が伝えられ、島の人々が独自の文字体系を発明するきっかけとなった、と主張しているのである。この仮説が正しいならば、ロンゴロンゴは100年足らずの期間に、急速に出現、発展、衰退、忘却されたことになる。そのような文字の伝播の例として、英語の新聞の力を見てチェロキー文字を発明したシクウォイアや、キリスト教文献を読んで啓発され、ユピック語の中央アラスカ方言の文字やユグトゥン文字(Yugtun script)を発明したウヤクク(Uyaquk)などが知られている。しかし、いずれも、1回の条約への調印などよりもはるかに大きな文化的接触がきっかけとなっている。初期の探検家達(島には短い期間しか滞在しなかった)にロンゴロンゴが目撃されなかったという事実は、当時はそれが秘匿されていたことを反映しているのかもしれない。ヨーロッパ人による奴隷狩りやそれに続く疫病によってイースター島の社会が崩壊し、ロンゴロンゴの禁制や「タンガタ・ロンゴロンゴ」(tangata rongorongo = ロンゴロンゴを操る人)の力が弱まったため[32]、エイローの時代には文字板が広範囲に流出するようになっていた、とも考えられる。

ペトログリフ

アナ・オ・ケケ(Ana o Keke)の洞窟内のペトログリフ。羽毛型のロンゴロンゴの絵文字 3(左)や、合字の絵文字 211:42(中央)に似た図形が描かれている。2つの絵文字を横切るように杯状に彫られた丸い記号からなる列があり、終わりにV字型の図形が見える。これは絵文字 27 を描いたものかもしれない。

イースター島はポリネシアの中でも、様々な種類のペトログリフが最も数多く見られるところである[33]。家屋の石壁や、有名なモアイ像、「プカオ」(pukao)と呼ばれるモアイの頭の被り物の表面など、絵を描くのに適していると思われる壁面のほとんどすべてにペトログリフが見られる。およそ1,000か所で4,000種類以上の図形が認められており、中には浮彫り式に彫刻されたものや、赤や白の塗料で着色されているものもある。図形のデザインは、オロンゴ(Orongo)の壁画に見られるような、古くからの鳥人信仰に基づく競技における勝者(tangata manu = 鳥人と呼ばれる)の図など、儀式の中心として描かれたものや、創造神マケマケの肖像、ウミガメ、マグロ、タチウオ、サメ、クジラ、イルカ、カニ、タコなどの海洋生物(中には人面を持つものもある)、ニワトリ、カヌー、そして500種類以上の女性の陰部(komari)の図形などである。ペトログリフにはしばしば、杯状に彫られた彫刻が添えられている。時代による図形の描き方の変化は、鳥人の浮彫りから窺(うかが)い知れる。単純な輪郭のみのものから、陰部の図形を伴うものへの変化である。ペトログリフが描かれた年代を直接特定する方法はないが、中には一部が、植民地時代より前の時代の石製家屋の陰に隠れているものがあり、そのようなものは比較的古い時代に描かれたものであることを示している。

ペトログリフに見られる人間型や動物型の図形には、ロンゴロンゴの絵文字と同じものがあり、例えば、モアイ像の被り物に描かれた双頭のグンカンドリの図は、10以上の文字板にある(絵文字 680)と同じ形である[34]。アメリカのショーン・マクラフリン(Shawn McLaughlin)は2004年、人類学者ジョージア・リー博士(Dr. Georgia Lee)が1992年に発表したペトログリフにある図形の中から、ロンゴロンゴの絵文字と似ているもののうち、とくに顕著なものを選んで図解を発表したが[34]、これらは単独で描かれているものがほとんどであり、テキストのように複数の絵文字群が描かれているものはまれである。このことから、ロンゴロンゴはペトログリフの図形をヒントにしたか、あるいはペトログリフの個々の図形が表語文字として採用された最近の創作物で、ペトログリフの伝統ほど古くからあるものではないという説もある[35]。ペトログリフとして描かれた、最も複雑な構成のロンゴロンゴの候補は、洞窟の壁面に刻まれた一続きの絵文字である(右図参照)。


注釈

  1. ^ 木製のレプリカがイースター島の主都ハンガ・ロアのゼバスティアン・エングレルト神父人類学博物館 に所蔵されている。
  2. ^ ジャン=フランソワ・シャンポリオンロゼッタ・ストーンの解読とヒエログリフの解析で快挙を成し、一大センセーションを巻き起こしたのが1822年。
  3. ^ a b ドイツ出身でイースター島に居住した神父、言語学者のゼバスティアン・エングレルト (Sebastian Englert) がロンゴロンゴをこのように訳しており("recitar, declamar, leer cantando" <to recite, declaim, read chanting>)、「タンガタ・ロンゴロンゴ」(tangata rogorogo = ロンゴロンゴ男)を「コハウ・ロンゴロンゴ(詠唱の絵文字を記した板)を読むことが出来る男」と説明している。ロンゴロンゴは「伝言、命令、知らせ」を意味する rongo畳語であり、tangata rongo は「伝令者」の意である。
    また、「コハウ」Kohau は「板の上に線 (hau) で書かれた絵文字、あるいは棒状の書記道具」とされている。
    ラパ・ヌイ語の rongo /ɾoŋo/同根語は、 マレー語dengar /dəŋar/フィジー語rogoca /roŋoða/ハワイ語lono /lono/等、他の多くのオーストロネシア語族の言語に見られ、いずれも「聞く」などの意味を有する。
  4. ^ Merton D. Simpson Gallery収蔵
  5. ^ a b 例えば、スイスの人類学者アルフレッド・メトロー(Alfred Métraux)は1938年、「文字板 V」について、「本物であるか疑わしい。絵文字は金属製の道具で刻まれたとみえ、本物の文字板の特徴である、絵文字の輪郭の規則性や美しさが見られない。」と述べている。1880年代には、文字板の模造品が旅行者の土産品として製作されていた。
  6. ^ これはおそらく、サンクトペテルブルクの博物館で моаи папа(翻字:moai papa) というラベルとともに所蔵されている、「モアイ・パアパア」の像(mo‘ai pa‘apa‘a, Catalog # 402-1)のことを指しているのであろう。
  7. ^ もし、ロンゴロンゴが純粋な音節文字であるなら、ラパ・ヌイ語を表記するのに必要な文字数は、母音の長短を区別しない、あるいは長母音を二重母音として扱った場合、55種類である[10]
  8. ^ バルテルはこの方法を実際に試しており、ベルギーのフランソワ・デドラン(François Dederen)は、1993年に同じ方法でいくつかの文字板を複製している。フィッシャーは次のように述べている[23]

    「サンクトペテルブルク大文字板([P]r3)」では、…鳥の嘴が黒曜石の薄片で刻まれた跡を確認できるが、書記が上から清書する際により丸い形に直されている。…なぜなら、書記は清書の際にはサメの歯でできた別の道具で刻んでいるからである。「サンクトペテルブルク大文字板 [文字板 P]」には、清書の際に少し形を変えて刻まれた絵文字の例が多く見られる。 ロンゴロンゴの絵文字は、「物の輪郭を描いた絵文字」("contour script") であり、輪郭の中、あるいは外には、様々な線や、円、斜線、点が加えられている[24]、…しばしば、そのような絵文字の輪郭以外の部分が、サメの歯で清書されずに、黒曜石で刻まれた細かい線の下書のまま残されている例がある。このような例はとくに、「ウィーン小文字板(文字板 N)」ではっきりと認められる。

  9. ^ 一方ニワトリは、イースター島でも主な流通品のひとつであり、文字板の中には、首長が何人殺して、何羽のニワトリを盗んだのかを記念したものと推定されているものがあるにもかかわらず、ニワトリを描いたと思われる絵文字は見つかっていない[27]
  10. ^ 「通常の炭素年代法で得られた結果は… 80 ±40 BP で、2-シグマ修正による年代は(95%の可能性)、Cal AD 1680からCal AD 1740の間(Cal BP 270から200)、Cal AD 1800から1930(Cal BP 150から20)、そして AD 1950から1960(Cal BP 0 から 0)であった; 実際、この文字板は1871年に収集されたものであるため、それより後の測定年代は誤りである。」"
  11. ^ 「ママリ」の木は幅19.6 cmで、外側の円周部に白木質を含んでいる。そのような幹の直径の特徴は、最大で高さが15 mになるPacific rosewoodの幹の特徴と一致する。
  12. ^ Dans toutes les cases on trouve des tablettes de bois ou des bâtons couverts de plusieurs espèces de caractères hiéroglyphiques: ce sont des figures d'animaux inconnues dans l'île, que les indigènes tracent au moyen de pierres tranchantes. Chaque figure a son nom; mais le peu de cas qu'ils font de ces tablettes m'incline à penser que ces caractères, restes d'une écriture primitive, sont pour eux maintenant un usage qu'ils conservent sans en chercher le sens.
  13. ^ メトローは、「現在の島の先住民456人は全員、1872年にフランスの宣教師達が島を離れた後に残っていた住民111人の子孫である」と述べている[38]。しかし、イギリスの人類学者キャサリン・ルートリッジ(Katherine Routlegde)は、ルーセル神父が島から避難した1871年に、島に残っていた住民の数は171人で、ほとんどが老人であったとしている[39]。また、アメリカ海軍の軍医でイースター島を訪問したジョージ・H・クーク(Geroge H. Cooke)は、1878年に約300人の人々が島から避難し、「イギリス海軍の軍艦サッフォー(H. M. S. Sappho)が1878年、イースター島に到着した際に島に残っていた住人の数は150人であった。」と記している。その中でクークは1886年に受け取った島全土の人口調査の要約を記載しており、それによると先住民が155人、外国人が11人となっている[28]
  14. ^ バルテルは、「その形状、大きさ、置かれていた状況から、これらはここで2度行われた埋葬の際に、奉納された文字板であるとかなりの高い確率で言うことができる。」と述べている[40]
  15. ^ しかし、ロシアの研究者イゴール・ポズドニアコフ(Igor Pozdniakov)とコンスタンティン・ポズドニアコフ(Konstantin Pozdniakov)は2007年、テキストのパターンの数に限りがあり、繰り返しが多い点から、歴史や神話のような複雑な内容の記録であることはありえない、という考えを示した。

出典

  1. ^ a b Englert 1993[要ページ番号]
  2. ^ Barthel June 1958:66
  3. ^ Fischer 1997:667
  4. ^ Fischer 1997:ix
  5. ^ Fischer 1997[要ページ番号]
  6. ^ Fischer 1997:534
  7. ^ Fischer 1997:543
  8. ^ バルテルの絵文字の分類方法の解説”. www.rongorongo.org. 2008年6月9日閲覧。
  9. ^ Pozdniakov 1996:294
  10. ^ Macri 1995
  11. ^ Pozdniakov and Pozdniakov 2007[要ページ番号]
  12. ^ Guy 2000[要ページ番号]
  13. ^ 1958: Appendix
  14. ^ Guy 1998a
  15. ^ Fischer 1997:382
  16. ^ Fischer 1997:483
  17. ^ Fischer 1997:497
  18. ^ Fischer 1997:382–383
  19. ^ Barthel 1971:1168
  20. ^ Fischer 1997:386
  21. ^ Fischer 1997:353
  22. ^ Métraux 1940:404
  23. ^ 1997:389–390
  24. ^ Barthel 1955:360
  25. ^ Fischer 1997:501
  26. ^ Guy 2006[要ページ番号]
  27. ^ Routledge 1919:251
  28. ^ a b Cooke 1899:712
  29. ^ Englert 1970:149–153
  30. ^ a b Orliac 2005[要ページ番号]
  31. ^ Flenley and Bahn 1992:172
  32. ^ Bahn 1996[要ページ番号]
  33. ^ Lee 1992[要ページ番号]
  34. ^ a b 参照。その他、ロンゴロンゴの絵文字と似たペトログリフの例をここや、ここで見ることができる。
  35. ^ Macri 1995[要ページ番号]
  36. ^ Fischer 1997:21–24
  37. ^ Routledge 1919:207
  38. ^ Métraux 1940:3
  39. ^ Routlegde 1919:208
  40. ^ Barthel 1997:526
  41. ^ Barthel 1959:162–163
  42. ^ Fischer 1997:Appendices
  43. ^ Routledge 1919:253–254
  44. ^ Englert 1970:80
  45. ^ Comrie et al. 1996:100
  46. ^ Pozdniakov and Pozdniakov, 2007





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロンゴロンゴ」の関連用語

ロンゴロンゴのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロンゴロンゴのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロンゴロンゴ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS