ヤマトタケル 記録

ヤマトタケル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 08:42 UTC 版)

記録

古事記』と『日本書紀[9]の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、豪胆な主人公や父天皇に疎まれる人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。おおむね『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、父の天皇に忠実で信頼も厚い(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。

西征

ヤマトタケル(菊池容斎画)
女装するヤマトタケル(月岡芳年画)

古事記
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州のクマソタケル(熊襲建)兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
日本書紀
兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。古事記と異なり倭姫の登場がなく、従者も与えられている。従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれる。弟彦公は石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。
先代旧事本紀
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 按日本紀 當作二十七年[10]とあるのみ。

古事記
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。
日本書紀
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される。川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。

肥前国風土記

佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述される。いずれも地名伝承である。小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛をことごとく誅している。

古事記
その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌う。こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。
日本書紀
崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。

東征


古事記
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
日本書紀
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。

古事記
倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約して東国へ赴く。
日本書紀
対応する記述は存在しない。

ヤマトタケル(歌川国芳画)
古事記
相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
日本書紀
駿河が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。

古事記
相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。


入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母

読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも

訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……

弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
日本書紀
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、和歌はない。

「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮(山梨県甲府市酒折)
古事記
その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国酒折宮連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。
日本書紀
ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。

常陸国風土記

倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。

陸奥国風土記逸文

八槻の郷の地名伝承。日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した場所を矢着(やつき)と名付ける。別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。その地を「八槻」と言うようになったとある。 

伊吹山頂の日本武尊像
古事記
尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が生理中であることを知り、次のように歌う。
「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ”
美夜受比売は答えて次のように歌った。
「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ”
二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。
日本書紀
経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
尾張国風土記逸文
宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとされる。

古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
日本書紀
伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。

古事記
倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。
すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。
また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。
これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌[11])となった。
日本書紀
父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[12]となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。

古事記
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
日本書紀
白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。

注釈

  1. ^ 宮内庁治定墓(能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵)での公式表記、および『国史大辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本人名大辞典』(講談社)の項目名において、「日本武尊」の用字が採用される。
  2. ^ 『古事記』景行天皇段には景行天皇が娶ったとあるが、明らかに不合理である。応神天皇段には応神天皇が娶ったとあり、こちらは無理がない。二人の迦具漏比売を同名の別人とすれば筋は通る。また祖父は倭建命の子の若建王ではなく、『古事記』で景行天皇の后・伊那毘能大郎女とその妹・伊那毘能若郎女の父とされる若建吉備津日子であり、父は大郎女の弟で若郎女の兄だった可能性が考えられる。この場合、父の名前が須売伊呂で兄とも弟とも書かない理由が説明できる。

原典

  1. ^ 『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条。
  2. ^ 『新撰姓氏録』和泉国皇別 和気公条、和泉国皇別 聟本条。
  3. ^ 『釈日本紀』巻7 草薙劔条所引『尾張国風土記』逸文。
  4. ^ 『常陸国風土記』序文、信太郡条、茨城郡条、行方郡条、香島郡条、久慈郡条。
  5. ^ 『常陸国風土記』久慈郡条、多珂郡条。
  6. ^ 『万葉集註釈』巻7所引『阿波国風土記』逸文。
  7. ^ 『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。
  8. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。
  9. ^ 『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。
  10. ^ 『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。
  11. ^ 『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。

出典

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  9. ^ 岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』による。
  10. ^ 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀
  11. ^ 「大御葬歌」は昭和天皇の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。
  12. ^ 当時の白鳥は現在のハクチョウ以外にも、白鷺など白い鳥全般を指した。
  13. ^ 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。
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