ディープ・パープル
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音楽性と影響
時期によってその音楽性は変転しているが、最も印象深く、商業的にも成功している第2期は、いわゆる「ハードロック」であり、また「ヘヴィメタル」の先駆的な存在であると思われる。クリームやジミ・ヘンドリックスなどの先例はあるにせよ、疾走感を伴う曲想と、大きな音量を出すことが可能なアンプ / PAを使用して、観客を圧倒するパフォーマンスを展開するという、言ってみれば「形式としてのハードロック」を構築したのはディープ・パープルであると言われている(音量を参照)。
また、クラシック音楽の導入が特徴とされている。とりわけ国民楽派以降のそれに多大な影響を受けており、和声進行(ハーモニックマイナースケール)を楽式に導入している。ブラックモアは、代表曲「ハイウェイ・スター」と「紫の炎」の間奏部分はバッハのコード進行を引用したものであると語っている。
また、ブラックモアによるギターの速弾き、印象的なリフは非常に有名で、彼は速弾きの元祖とも言われている。特に「ハイウェイ・スター」や「紫の炎」などに見られる速弾きのテクニックは、その後の多くのギタリストに影響を与えた。また「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフは彼らの楽曲の中ではもっとも有名な楽曲となり、TVやCMでそのリフが多用され、ロック・スターを夢見る多くのアマチュア・ミュージシャンに多大の影響を与えている。ストラトキャスター、もしくはそのコピー・モデルを手に入れて、まず「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフを弾くギター・キッズは今も多い。他にも「ブラック・ナイト」のリフが有名。
ギランの金切り声を立てる超高音シャウトは当時のロック界を象徴するものであり、レッド・ツェッペリンのロバート・プラントとともに多方面に影響を与えた[注 56]。
音量
第2期のメンバーは、全員がマーシャル製のアンプを使い[注 57]、PAシステムにも同社のものを使用していた。1972年の初来日公演で、ギランはヴォーカル用マイクロフォン(シュア#565SD)2本をガムテープで束ねて使っていたが、これは出力を高めるためではなく、PA用と録音用にそれぞれ1本ずつ使用したためである。
1972年7月1日、ロンドンのレインボウ・シアターで開かれたコンサートで最大112デシベルを計測し、1973年度版ギネスブックで『世界一の大音響バンド』("The loudest band in the world")として認定された[48]。1976年5月31日にイングランドのロック・バンドのザ・フーがロンドンのチャールトンの屋外スタジアムでのコンサートで最大120デシベルを計測したので彼等の記録は破られたが、屋内ステージでの公演における音量としては今だに世界記録である。
『ロックの殿堂』入り
ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame)には2012年と2013年の2度ノミネートされ、一般投票で2位と人気を示したが受賞は逃した。既に受賞したキッスのジーン・シモンズ、ラッシュのゲディー・リー、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュ、メタリカのラーズ・ウルリッヒは、ディープ・パープルは顕彰されるべきであるという意見を表明していた。2015年4月、『ローリング・ストーン』誌の「殿堂入りすべきバンド」の読者投票で1位となり、2015年10月に3度目のノミネートを受けた。
2016年4月に殿堂入りした。受賞者は第1期から第3期の総勢9名のメンバーのうち第1期のシンパーを除いた8名。現役メンバーであるモーズとエイリーは除外された[72]。授賞式には、故人のロードを除く7名の受賞者のうち、ペイス、ギラン、グローヴァー、カヴァデール、ヒューズの5名が出席。ブラックモア[73][注 58]とエヴァンスは欠席した。
注釈
- ^ 当時ハンブルグに住んでいたブラックモアはイタリアに向かう船の中でペイスに出会った。ペイスが当時在籍していたザ・メイズは1967年1月からミラノに3か月間滞在して"Chips With Everything"という舞台の音楽を担当していた。後日両者はハンブルグで再会してクラブで一緒に演奏し、ブラックモアはペイスのドラミングを気に入って一緒に活動しようと誘ったが、ペイスはザ・メイズの仕事を優先して断わった。
- ^ クラークはエドワーズとコレッタの援助を受けで、スティーヴ・ハウとボーダストを結成した。
- ^ この曲はピーター・デローズ(Peter DeRose)というピアニストが1933年に作曲したピアノ曲で、ミッチェル・パリッシュが詞をつけたものを1939年にラリー・クリントンとオーケストラ(Larry Clinton and His Orchestra)がヒットさせた。1963年にはニノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズが取り上げて全米1位を記録した。
- ^ ただし、本国イギリスではアルバム/シングルとも時期遅れの9月にパーロフォン・レーベルより発売され、まったくヒットしなかった。
- ^ 原曲はニール・ダイアモンド作。
- ^ 新曲「エマレッタ」をシングルで発表。オリジナル・アルバム未収録。
- ^ Popoff著の"The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979)"によると、第1期ディープ・パープルは1969年4月1日から5月29日まで2度目のアメリカ・ツアー、引き続いて6月にイギリス・ツアーを行った。ロード、ブラックモア、ペイスはこれらのツアーの途中で、エヴァンスとシンパーを辞めさせることを決めたという。第1期最後のコンサートは7月4日にウェールズのカーディフで行われた。
- ^ 後述するように、第2期の初シングル「ハレルヤ」(1969年7月)も初アルバム『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』(1969年12月)も、アメリカではテトラグラマトン・レコードから発表された。テトラグラマトン・レコードは1970年に倒産し、ディープ・パープルはワーナー・ブラザーズ・レコードと契約を結んで、1970年7月にワーナーからの第一弾になるシングル「ブラック・ナイト」とアルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』を発表した。
- ^ 1970年にテトラグラマトン・レコードが倒産したことによって、"Shades of Deep Purple"、"The Book of Taliesyn"、"Deep Purple"はアメリカで廃盤になった。ワーナー・ブラザーズ・レコードは1972年に、これらのアルバムの収録曲を編集した2枚組アルバム『紫の軌跡』を発表した。
- ^ 「聖なる歌」と「4月の協奏曲」では室内楽団が起用された。
- ^ 1970年のテトラグラマトン・レコードの倒産によって、これらのアルバムの日本盤である『紫の世界』『ディープ・パープルの華麗なる世界』『素晴らしきアートロックの世界』も同様に廃盤になったが、ワーナー・パイオニアは1973年に、これらを『ハッシュ』『詩人タリエシンの世界』『ディープ・パープルIII』として再発した。発表時と違って再発時の日本ではディープ・パープルはハード・ロック・バンドとして絶大な人気を誇っていたので、これらのアルバムにもハード・ロックを期待する風潮が少なからず存在した。
- ^ ギランとグローヴァ―は、自分達がディープ・パープルに加入することが発表された後の1969年7月26日から、エピソード・シックスでの最後のステージを4回に渡って務めた。なおエピソード・シックスは、1974年頃まで活動を続けた。
- ^ 同年7月4日のウェールズのカーディフで行われた第1期最後のコンサートから、一週間足らずしか経っていなかった。
- ^ Roger GreenawayとRoger Cookの共作。第1期のアルバムのプロデューサーだったデレク・ローレンスのThe Derek Lawrence Statementの名義で、'I Am The Preacher'の曲名でシングル発表された。レコーディングは第1期末の6月7日と12日に、正式加入前のギランとグローヴァ―を招いて極秘に行なわれた。
- ^ イギリスではハーヴェスト・レコード、アメリカではテトラグラマトン・レーベルから発表された。
- ^ ロードは1991年に発売されたドキュメンタリー・ビデオ『ヘヴィ・メタル・パイオニアズ』(Heavy Metal Pioneers)で、「ジミ・ヘンドリックスに影響を受けたブラックモアの希望を受け入れてハード・ロックの路線に進む事に決め、その為にエヴァンスとシンパーを誰かに替えるべきだと判断した」という主旨の回想をして、ハード・ロック・バンドになることは第2期に入った時に既に決まっていたとしている。
- ^ 『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』はアメリカではテトラグラマトン・レコードの倒産に伴なって、1970年8月にワーナー・ブラザーズ・レコードから再発された。ディープ・パープルは、同年6月に次作『ディープ・パープル・イン・ロック』を発表して8月15日からアメリカ・ツアーを行っていたが、この再発に合わせて、同月25日にハリウッド・ボウルでローレンス・フォスターが指揮するロサンジェルス・フィルハーモニックと共演して、「グループとオーケストラのための協奏曲」を再演した。
- ^ 彼は自分が次はハード・ロックのアルバムを作ろうと主張して「もし失敗したら、今後ずっと協奏曲を演奏するから」とロードを説得した、という話を今日に至るまで繰り返している。ハード・ロック・バンドになることは第2期に入った時に既に決まっていたとするロードの回想とは異なる述懐である。
- ^ 新作に収録された「スピード・キング」の前駆体「ニール・アンド・プレイ」と「チャイルド・イン・タイム」は、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共演する前の8月下旬から、既にコンサートで演奏されていた。「チャイルド・イン・タイム」は9月24日に彼等が単独で登場した第2部でも演奏され、後年『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』のCDの追加版に収録された。同年10月4日にモントルー・カジノで開かれたコンサートの音源は'Live in Montreux 69'(2006年)に収録されている。
- ^ 「グループとオーケストラのための協奏曲」を除いた第2期の曲は全てメンバー5人の共作であると記されたが、ロードはVHS『ヘヴィ・メタル・パイオニアズ』で、作曲の中心的な役割を担ったのはブラックモアだったと明言している。
- ^ 1971年にパープル・レコードの第一弾アルバムとして発表されたロード初のソロ・アルバムに収録された。マルコム・アーノルドが指揮するロンドン交響楽団が参加して、ロード、アルバート・リー(ギター)、トニー・アシュトン(ボーカル)、イヴォンヌ・エリマン(ボーカル)、グローヴァー、ペイスと共演した。因みにディープ・パープルは1970年9月17日にロイヤル・フェスティバル・ホールで、アーノルドが指揮するオーケストラ・オブ・ザ・ライト・ソサエティ・ミュージック(The Orchestra of The Light Music Society)と共演して「ジェミニ組曲」を披露した。この録音は1993年に"Deep Purple And The Orchestra Of The Light Music Society Conducted By Malcolm Arnold – Gemini Suite Live"として発表された。
- ^ 1974年に発表されたロードの2作目のソロ・アルバムに収録された。このアルバムは、1974年6月1日にミュンヘンで開かれた、作曲家エバーハード・シェーナーが指揮するミュンヘン室内管弦楽団とロードとの共演コンサートのライブ録音。ピート・ヨーク(ドラムス)、トニー・アシュトン(ボーカル、キーボード)、レイ・フェンウィック(ギター)、ディープ・パープルの第3期のメンバーであるデイヴィッド・カヴァデール(ボーカル)とグレン・ヒューズ(ベース・ギター、ボーカル)が客演した。
- ^ ミュージカルの鬼才ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーが作詞・作曲を務めた。
- ^ この作品はニューヨーク・ブロードウェイで舞台化され、1973年には映画化もされたが、ギランはいずれにも関与していない。映画への主演の依頼があったが、マネージメントがディープ・パープルのツアー・スケジュールを優先して断った。
- ^ グローヴァーがボーカリストを兼任した。
- ^ 発言者と応答者が逆という説もある。グローヴァーはDVD『Heavy Metal Pioneers』のインタヴューで、「朝、起き上がって"Smoke on the Water"と呟いた。他に誰もいない部屋の中で、誰に向かって。夢だったかもしれない。で、そのあとイアン(ギラン)にその話をした」と発言している。
- ^ ブラックモアは3月29日のニューヨーク公演のあと肝炎に罹患して離脱。彼等は31日のフリント公演を4人で行い、4月6日のケベック・シティー公演ではランディー・カリフォルニアの助けを借りた。ブラックモアの罹患が判明した時点で、アメリカ・ツアーの残りは一旦全てキャンセルされ、5月の日本ツアーは延期されることが決まった。
- ^ 6月30日と7月1日にツアーの合間を縫ってアメリカからロンドンに急行してレインボウシアターでコンサートを開き、1日のコンサートで最大112デシベルを計測して、コンサートの音量の最大記録を作った。その後、またアメリカに戻ってツアーを続けた。
- ^ ブラックモアはギターのダビングをトラックの中で行ったという。
- ^ 原題Who Do We Think We Are?は、「イン・ロック」「ファイアボール」「マシン・ヘッド」などとは対照的で、ハード・ロック・バンドのアルバム・タイトルらしからぬ、極めて内省的なものである。
- ^ 日本で『ライブ・イン・ジャパン』が発表されたのと同じ時期に行われた脱退表明だった。
- ^ 彼はペイスとシン・リジィのフィル・ライノットを誘って、トリオを結成するつもりだった。因みに1972年の初めに、彼がディープ・パープルを脱退してライノットとバンドを結成するという噂が流れたことがあった。
- ^ 説得の真相は明らかでは無い。ブラックモアがグローヴァーに対して音楽的な不満を持っていたという説は、彼が後年グローヴァーをレインボーに迎えた点を考慮すると説得力に欠ける。また後に彼は「ロジャーにはすまないことをした。ロジャーは良い奴だ」とコメントしている。
- ^ 内容は『マシン・ヘッド』ツアーと殆んど同じだった。
- ^ グローヴァーはツアーの途中、他のメンバー達が自分に冷淡な態度を取ることに気づいた。彼はその事を訝しがって、6月15日のジャクソンビル公演の後でマネージャーのトニー・エドワーズを詰問し、ブラックモアが「ロジャーが辞めなければ自分が辞める」と宣言していることを知った。日本公演最終日の約2週間前のことだった。
- ^ 6月25日に日本武道館で行われた東京公演では、アンコールが行われなかったことに観客の一部が激怒して会場を破壊。翌日も武道館で行われる予定だったコンサートは中止になった。
- ^ 前述のように、ギランは約半年前の1972年12月9日に、この日に脱退すると表明していた。
- ^ この映像は2023年現在でもDVDソフトとして購入することが可能。
- ^ ブラックモアの旧友で彼にギランを紹介したミック・アンダーウッドが結成したトリオ。
- ^ スティーヴ・ハモンド(Steve Hammond)の作品。ハモンドはギタリストで、ノエル・レディングがジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスに在籍中に結成したファット・マットレスに、脱退したレディングの後任として加入して同曲を提供した。ファット・マットレスが録音した原曲は、2000年に発表された編集アルバムに収録されている。クォーターマスは1970年に発表したデビュー・アルバムで、同曲を取り上げた。
- ^ グローヴァーとペイスが見い出したアメリカのバンド。デビュー・アルバムは2人、2作目と3作目(翌1975年に制作)はグローヴァーがプロデュースした。
- ^ 1976年、ライブ・アルバム『メイド・イン・ヨーロッパ』が発売され、4月7日の演奏が収録されている。ただし、どの曲かは記載されていない。ちなみに全ての演奏が4月4日 - 4月7日に収録されていると記載されている。
- ^ 当時は寝違えたためとアナウンスされていた。
- ^ イングランド・ツアー最終日の15日にリヴァプール・エンパイア・シアターで行われたコンサートの後、ロードとペイスは楽屋で話し合ってディープ・パープルの解散を決めた。直後にカヴァデールが脱退を告げに来たので、ロードは彼に「脱退しなければならないバンドはもうないよ」と自分達の合意を教えた。解散はヒューズとボーリンには伏せられたままで、予定されていたドイツ公演はキャンセルされた。
- ^ 解散時に正式なコメントを残していないロードは、後に「ディープ・パープルを名乗るべきではなかった」との旨の発言をしている。
- ^ 解散後、カヴァデールは、念願だったソロ・アルバムを2枚発表した後、ホワイトスネイクを結成。ヒューズはヒューズ/スロールで活動。ロードとペイスはペイス・アシュトン・ロード結成を経て、カヴァデールのホワイトスネイクに合流。ボーリンはソロ・アルバムを制作し、バンドを結成して活動も展開するが、同年12月4日、ツアーの途中でドラッグの過剰摂取により死去した。
- ^ 1980年に、第1期のメンバーだったエヴァンスが無名のミュージシャンを集めてバンドを結成して、無許可でディープ・パープルと名乗って活動を行うという、いわゆる「偽ディープ・パープル騒動」が発生した。詳細はロッド・エヴァンス#偽ディープ・パープル騒動を参照。
- ^ 前年の1983年にも再結成が計画されたが、この時にはメンバーの足並みが揃わず見送られている。同年に発表されたレインボーの『ストリート・オブ・ドリームス』の収録曲の一部は、再結成するディープ・パープルの為に作られた曲が流用されたものである。
- ^ 後述するように、ブラックモアは1993年に再びディープ・パープルを脱退した。
- ^ アルバム『ファイアボール』(1971年)の収録曲。シュトゥットガルト公演とバーミンガム公演を収録した『ライヴ・紫の閃光』(1994年)に収録されている。
- ^ 第2期の楽曲でありながら、ブラックモア在籍時には殆どか全く演奏されなかった「メイビー・アイム・ア・レオ」「ピクチャーズ・オブ・ホーム」「ブラインド・マン」も披露された。
- ^ ギラン、グローヴァーと対立したという説あり。
- ^ エイリーはレインボーに在籍してブラックモアやグローヴァーとの関わりがあった。偶然だが、1984年にロードがホワイトスネイクを脱退してディープ・パープルの再結成に参加した時も、エイリーがロードの後任としてホワイトスネイクに招かれた。
- ^ これが最後の来日になった。
- ^ a b ブラックモアズ・ナイトのアルバム『ダンサー・アンド・ザ・ムーン』(2013年)に収録されたブラックモアの単独作'Carry On... Jon'は、ロードを追悼したインストゥルメンタルである。
- ^ プラント自身は「レッド・ツェッペリンはヘヴィメタルでは無い」という意味のコメントを発している。
- ^ ギター用は当時市販されていた「マーシャル・メジャー1967」と仕様が異なる特注品だった。
- ^ ディープ・パープル側が共演に難色を示した事情もあり、出席を見送った。
- ^ 海賊版のジャケットにも使われた。
- ^ 1974年3月4日から4月9日まで行われた、一か月間のアメリカ・ツアーで使用した時の借用料は$127,000だった。
- ^ フランク・シナトラ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、エルトン・ジョンなども同型の専用機を使用していた。
- ^ 後にパープル・ファミリーの一員になったレインボーも日本では格別の人気があり、メンバーが来日時は「ビートルズのような扱いを受けた」と語ったと伝えられている。
出典
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- ^ 『DEEP PURPLEIN BOOK ディープ・パープル全史』2018年 シンコーミュージック・エンタテイメント ISBN 9784401646722 pp282 - 283
- ^ ディープ・パープル「新作は前作よりヘヴィで、よりプログレ」 - BARKS
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- ^ D.カヴァデールとG.ヒューズ、殿堂入りセレモニーに出席 - BARKS
- ^ リッチー・ブラックモア、ロックの殿堂入り欠席を正式に表明 - Barks
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- ^ “Discogs”. 2023年5月19日閲覧。
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