誕生から家督相続までとは? わかりやすく解説

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誕生から家督相続まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:10 UTC 版)

北条氏康」の記事における「誕生から家督相続まで」の解説

後北条初代として扱われる伊勢宗瑞北条早雲)が存命中の永正12年1515年)、第2代当主北条氏綱当時伊勢氏綱)の嫡男伊勢伊豆千代丸」として生まれる。3歳であった永正15年2月8日、宗瑞から護符太刀及び置文授けられ将来後継者として位置づけられる。4歳時に祖父・宗瑞が死去9歳の頃から父・氏綱は北条氏名乗るうになる。ただし、当初北条」の名乗り用いたのは、氏綱のみであったらしく、大永5年1525年8月飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を授けられた際に「伊勢伊豆千代丸」充で贈られている。元服は氏綱の左京大夫任官同時期の享禄2年1529年年末15歳の頃見られている。北条氏名乗ったのも元服きっかけにしたと推測される享禄3年1530年)、小沢原の戦いにおける初陣にて上杉朝興戦い、これに大勝した伝承されており(『異本小田原記』)、当時史料の面からも事実に近いとされている。天文4年1535年8月甲斐山中合戦天文6年1537年7月河越城攻略などに出陣し戦功重ね天文7年1538年)の第一次国府台の戦いでは父と共に足利義明里見連合軍戦い、敵の総大将小弓公方足利義明討ち取って勝利を収めた天文4年1535年もしくは5年1536年)に又従兄弟にあたる今川氏親の娘を正妻迎え天文6年1537年)には嫡男西堂丸が誕生している。しかし、天文6年1537年2月今川氏北条氏対立する武田氏婚姻同盟結んだことを知った父・氏綱はその月のうちに今川との同盟破って駿河侵攻している(第一次河東一乱)。天文6年1537年7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮社領寄進し、同8年1539年6月には将軍足利義晴から巣の雛)を贈られている。 天文10年1541年7月17日に氏綱が死去したため、家督継いで第3当主となった。氏綱は死の直前5月22日、5か条の訓戒状を残している。一説では天文7年1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督譲り後見していたとされるまた、氏綱は天文10年初夏には体調崩して前述訓戒状を残していることから、氏綱の隠居死の直前であったとする説もある。天文7年1538年正月以降、氏康単独発給文書見られることから、実際家督問題は別として、当主継承備えた準備進められていたと推測することは可能である。 氏康が家督継いだとされる天文10月7月時点で、北条氏領国相模国伊豆国二国武蔵国一部小机領・江戸領・河越領)と下総国一部葛西領)であり、その他従属国衆として上総国真里谷家、下総国千葉家武蔵国由井大石家勝沼三田家駿河国東部御厨垪和家・葛山家・富士家諸家位置づけられた。

※この「誕生から家督相続まで」の解説は、「北条氏康」の解説の一部です。
「誕生から家督相続まで」を含む「北条氏康」の記事については、「北条氏康」の概要を参照ください。

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