誕生から家督相続まで
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後北条初代として扱われる伊勢宗瑞(北条早雲)が存命中の永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる。3歳であった永正15年2月8日、宗瑞から護符と太刀及び置文を授けられ、将来の後継者として位置づけられる。4歳の時に祖父・宗瑞が死去。9歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになる。ただし、当初「北条」の名乗りを用いたのは、氏綱のみであったらしく、大永5年(1525年)8月に飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を授けられた際に「伊勢伊豆千代丸」充で贈られている。元服は氏綱の左京大夫任官と同時期の享禄2年(1529年)年末の15歳の頃と見られている。北条氏を名乗ったのも元服をきっかけにしたと推測される。 享禄3年(1530年)、小沢原の戦いにおける初陣にて上杉朝興と戦い、これに大勝したと伝承されており(『異本小田原記』)、当時代史料の面からも事実に近いとされている。天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取って勝利を収めた。 天文4年(1535年)もしくは翌5年(1536年)に又従兄弟にあたる今川氏親の娘を正妻に迎え、天文6年(1537年)には嫡男の西堂丸が誕生している。しかし、天文6年(1537年)2月に今川氏が北条氏と対立する武田氏と婚姻同盟を結んだことを知った父・氏綱はその月のうちに今川との同盟を破って駿河に侵攻している(第一次河東一乱)。天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍・足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られている。 天文10年(1541年)7月17日に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。氏綱は死の直前の5月22日、5か条の訓戒状を残している。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。また、氏綱は天文10年の初夏には体調を崩して前述の訓戒状を残していることから、氏綱の隠居は死の直前であったとする説もある。天文7年(1538年)正月以降、氏康単独発給の文書が見られることから、実際の家督の問題は別として、当主継承に備えた準備が進められていたと推測することは可能である。 氏康が家督を継いだとされる天文10月7月時点で、北条氏の領国は相模国・伊豆国の二国と武蔵国の一部(小机領・江戸領・河越領)と下総国の一部(葛西領)であり、その他従属国衆として上総国の真里谷家、下総国の千葉家、武蔵国の由井大石家と勝沼三田家、駿河国東部の御厨垪和家・葛山家・富士家の諸家が位置づけられた。
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