蜂起に至る経緯
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第二次世界大戦中、ハンガリー王国は日独伊が主体の枢軸国であり、1941年のユーゴスラビア侵攻やソ連に対するバルバロッサ作戦に参加した。1944年にソ連の軍隊である赤軍が国境に迫る中、一時はハンガリーは連合国と停戦合意を成立させた。しかし10月のパンツァーファウスト作戦によりドイツに占領され、親独派の矢十字党がハンガリーの支配者となった。一方で離反したハンガリー軍の一部と独立小農業者党、ハンガリー共産党などはソ連占領地域に逃れ、ハンガリー臨時国民政府を樹立した。1945年にはドイツ軍と矢十字党政権は赤軍に敗北し、ハンガリーはソ連の占領下に置かれた。 大戦直後に行われた国民選挙では独立小農業者党が大勝、ハンガリー第二共和国が成立しティルディ・ゾルターンが大統領となった。しかし1947年にソ連軍を後盾とするハンガリー共産党がクーデターをおこし、ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握った。1949年に経済相互援助会議が結成され、ソ連はハンガリーに恒久的に軍隊を配置する権利を獲得し、ハンガリーはソ連の衛星国となった(ハンガリー人民共和国)。ラーコシの指導の下でソ連型社会主義を模した国家造りが行われて、ハンガリー国家保衛庁は7000人以上の政治犯罪者を取り締まり、公開裁判にかけた。 戦前のハンガリーの経済は過度にドイツへ依存していたため、ドイツ敗北後の1946年には通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションがおこり、国が疲弊した。さらに1947年のパリ条約によってソ連、チェコスロバキア社会主義共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に対して30億ドルの戦争賠償を払う義務と、赤軍の駐屯費を負わされた。これは当時の国内総生産の2割程度に相当した。さらにその後の経済政策の失敗から生活水準は低下し、1949年の労働者の平均収入は、戦前の1938年の9割程度まで回復していたところが、3年後の1952年には7割まで急速に落ち込んだ。労働者の不満は工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府の強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。 1953年にスターリンが死去すると、共産圏全土で非スターリン化がおこった。ジャーナリストや文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生の組織を設立していた。国民全体から不平不満が巻き起こる中、独裁政党であったハンガリー勤労者党内でもラーコシらスターリン主義者を批判する改革派が台頭。そこへソビエト共産党内部で行われたニキータ・フルシチョフのスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。1953年6月、ラーコシはモスクワの圧力でナジ・イムレに首相の座を譲らされた。ナジはラーコシ時代の経済政策を改めようとしたが、なお書記長に留まっていたラーコシ派の巻き返しによって1955年4月に失脚した。 1956年7月18日、ソ連の圧力によりラーコシが党書記長の辞任に追い込まれるのを契機に、ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されたが、これに反発した市民は集会禁止令にも関わらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。ソ連指導部は急遽、党幹部会のアナスタス・ミコヤンとミハイル・スースロフの派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく蜂起が勃発する事態に至った。 ミコヤンとスースロフがハンガリーに出かけている間に、ソ連指導部はハンガリーに対する出兵を決定した。ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたが、フルシチョフはこれを拒否した。
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蜂起に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 04:59 UTC 版)
1911年の辛亥革命により清朝は倒壊し、中華民国が1912年に成立した。その中で革命派は清朝の実力者である袁世凱と妥協し、袁世凱を臨時大総統にすることでようやく革命を成し遂げた。しかし、袁世凱と革命派は対立を抑えきれなくなり、革命派寄りであった唐紹儀内閣は崩壊した。1912年8月25日 に孫文を代表とし総理を宋教仁とする中国国民党が結成され、1913年3月の最初の衆議院・参議院国会議員選挙では、議会政治で政治の主導権を握ろうとした宋教仁により国民党が870議席の内401議席を獲得して勝利した。宋は更に自ら内閣を組閣し、国会で袁世凱を罷免して黎元洪を大総統に据えようとしたともいわれる。 袁世凱は、アメリカの政治学者フランク・グッドナウ(英語版)による意見を取り入れ立憲君主制を目指す権力拡大を計り、1913年3月に刺客を放ち、宋教仁を上海で暗殺した。当時中華民国の全国鉄路督弁として中国国内の鉄道建設を図っていた孫文は宋教仁暗殺直後に訪問先の日本から帰国し、武装蜂起で袁世凱を打倒することを図った。袁世凱との和解を図っていた黄興ら国民党有力者も結局賛同し、蜂起計画が練られることとなる。
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