紅葉伝説
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紅葉伝説(もみじでんせつ)は、長野県の戸隠(とがくし)、鬼無里(きなさ・現、長野県長野市)、別所温泉などに伝わる鬼女にまつわる伝説。平維茂(たいら の これもち)が鬼女・紅葉(もみじ)と戦い、討ち取る話である。
- ^ 巖谷小波『大語園』第3巻平凡社1935年、93-95頁
- ^ 小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館、1992年、ISBN 4-09-207302-X、136-137頁
- ^ NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 善光寺道名所図会 巻之五
- ^ a b c d 『宗教と文化 : 斎藤昭俊教授還暦記念論文集』斎藤昭俊教授還暦記念論文集刊行会編 1990年 こびあん書房[要ページ番号]
- ^ a b 島津久基『国民伝説類聚』 大岡山書店 1933年 273-288頁
- ^ 吉備大臣(きびのおとど)あるいは紀大臣(きいのおとど)であると考えられる。 島津久基『国民伝説類聚』 大岡山書店 1933年 288頁
- ^ 小松和彦『日本妖怪異聞録』 小学館 1992年 ISBN 4-09-207302-X、156-158頁
- ^ 紅葉が流罪となり最初に暮らした。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 遷都伝説の頃(863年天武12年)頃との説もある。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 内裏屋敷の搦め手の守りとも弓矢の練習をしたとも云われる。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 紅葉が都を偲び京の地名を付けたと云われる。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 紅葉の菩提を弔う寺で紅葉と家来の墓があり、紅葉が持っていたと云う地蔵菩薩像がある。「松巌寺縁起」
- ^ 平維茂が戦勝を祈願した。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 平維茂が峠で疲れ沢で水を飲み「こわい、こわい」(方言)と言った。維茂が楊枝を刺すと芽が出て木になった。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 紅葉が暮らしたと云う洞窟。「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 紅葉と家来の墓と云われる。「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 伝説にちなんだ岩や沢などに名前が付く。「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 紅葉と維茂の戦いの舞台となった各地に地名が残る。「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 別名紅葉峰(もみじほう)、紅葉と維茂の名が同じ位牌にある。戦いの場面を時系列に沿って描かれた大きな掛け軸がある。「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 紅葉や維茂が祈願した社「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 戸隠神社中社脇には紅葉の手下と云われる「おまん」を祀った足神様がある。「鬼女紅葉伝説の里」
- ^ 長野県上田市別所には紅葉との戦いで傷つき死んだという平維茂の墓と云われる塚がある。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 別所温泉の北向観音は平維茂が改修したと云われる。紅葉と維茂の戦いを描いた絵馬がある。「源氏伝説のふるさと」
- ^ 長野市内の西厳寺、宝昌寺、木島平村の宣勝寺には紅葉と維茂の戦いを描いた掛軸がある。この三寺は平維茂の子孫が開いたとの伝承がある。また宝昌寺には維茂作という甲冑薬師如来像がある。「源氏伝説のふるさと」
- 1 紅葉伝説とは
- 2 紅葉伝説の概要
- 3 魏石鬼八面大王の妻とする伝説
- 4 参考文献
紅葉伝説
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「紅葉伝説」も参照 長野県長野市戸隠・鬼無里など鬼女紅葉伝説があり、勅命を受けた平維茂が八幡大菩薩より授かった破邪の刀でこれを退治する話が広く伝えられている。平維茂が戸隠山(荒倉山)で鬼退治したとする書物は江戸時代以降で『大日本史』(第140巻・列伝67)や『和漢三才図会』(信濃・戸隠明神)に記述がある。また信濃の地誌である『信府統記』、『菅江真澄遊覧記』(1784年天明4年)の記述、『信濃奇勝録』、『善光寺道名所図会』等々に記述がある。ストーリーは謡曲『紅葉狩』に沿ったものや北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全など近年に創作されたものに影響されている。
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紅葉伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 20:14 UTC 版)
北信州一円を舞台とする伝承で、会津、京都、鬼無里、戸隠、別所温泉などを舞台とする。能の代表的演目『紅葉狩』としても著名。一般的な伝承については紅葉伝説も参照。 一般には主人公の「紅葉」は妖術を操り、討伐される「鬼女」であるが、鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれる。 会津生まれの少女「呉葉」は美貌と才覚に恵まれ、953年(天暦6年)に16歳で都に上る。呉葉は「紅葉」と名を変え、源経基(清和源氏の祖)の局となり懐妊するが、956年(天暦6年)に19歳で信濃 へ配流されてしまう。一般には、紅葉が経基の正室に呪いをかけた咎によるものとされるが、鬼無里では逆に紅葉は正室の嫉妬による讒言の被害者である。 信濃山中(奥裾花渓谷とされる)に配流された紅葉は、水無瀬(鬼無里の古名。)村の根上の里にたどり着く。水無瀬村では、紅葉は村人の病を癒し、男には読み書きや算術を、娘には裁縫を教え、京の文化を伝える貴女として村民に敬愛される。村人は京を偲ぶ紅葉のために「内裏屋敷」を建て、警護の「館武士」を置く。また、裾花側の両岸を京都に見立てて西京や東京などの地名をつけた。 両京地区に残る地名や旧跡西京春日神社 天神川 吉田神社 内裏屋敷、館武士 - いずれも地名として残る。 月夜の陵 - 紅葉の腰元であった「月夜」を葬ったものとされる。 東京 - 東京二条、東京三条、東京四条、東京五条の小字がある。加茂神社 - 北側には加茂川が流れる。 清水 高尾 東山 紅葉の産んだ男子は父である源経基の一字をとって経若丸と名付けられ、やがて元服が近づく。しかし庶子の成長を忌む宮人の意向によって紅葉母子は討伐の対象となり、信濃守平維茂によって討たれる。なお、一般的な紅葉伝説では、再上洛を目指す紅葉が妖術を使って山賊 を集め、暴虐をふるって近隣を荒らしたため、冷泉天皇によって平維茂が派遣されるという筋立てになっている。 塩田平から出陣した平維茂の軍勢は紅葉の妖術によって敗れるが、別所温泉の北向観音で降魔の剣を授けられる。これに力を得た維茂軍は荒倉山の岩屋に篭った紅葉と賊を討ち果たす。紅葉が討たれたのは969年(安和2年)とされる。これ以降、村は鬼無里と呼ばれるようになったとされる。紅葉の首はどこかへ飛び去ったため両腕を塚に葬ったとされ、戸隠にその塚が残されている。一方、現在の鬼無里中心街にある松巌寺には紅葉の守護仏とされる木仏が祀られ、境内には紅葉やその家臣の墓がある。 維茂は大洞峠を越え、麓の白髯神社で戦勝祈願を行い、魚山の鬼無里神社や津島神社にも祈願を行ったとされる。最終決戦の地となる荒倉山の荒倉山神社も当時勧請されたとする戦勝祈願の八幡宮が祀られている。荒倉山にはこのほか、紅葉とその郎党が隠れ住んだという岩屋も残る。 両京地区には現在も「内裏屋敷」や「館武士」の地名が残るが、内裏屋敷からは礎石や古代のものと思われる石器や黒曜石、9〜10世紀の土器や鉄滓が発見されている。
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