第二次編成
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「第17師団 (日本軍)」の記事における「第二次編成」の解説
日中戦争が起こると1925年(大正14年)に廃止された師団番号を利用し復活した。これを第二次編成と呼ぶ。 第26師団に引き続き1938年(昭和13年)4月に、第15・第17・第21・第22・第23の5個師団が編成された。これら5コは、前線用戦闘師団を対ソ戦闘に専念させ後方任務を分離する目的の新設であり、編制装備は次等とされ警備師団と呼ばれた。師団新設には帝国議会の承認を必要としたが、国防機密を明白にすることになるので、次局対応で議会報告無しに編成してしまい処理に困っていたとこ図らずも支那事変が勃発し臨時軍事費が計上されたので、堂々と師団新設を報告する事ができた。新設師団は駐兵権保有地域への配備を目的としたが、内地の常設師団が補充を担任した。 第17師団は留守第10師団の編成担任であった。第17の師団番号は、従来第10師団(姫路)の特設師団番号に計画されていた。上記のように5コ師団新設が実行され、当初は、第21、第22、第23、第24、第25の師団番号を予定されたが、軍備増強計画更新により更に師団増を予定し、それら新設師団に番号を空けるため、第24・第25師団の師団番号が前詰めされ、軍縮廃止師団を永久的な常設師団として第15師団とともに第17師団が編成された。これにより第10師団の特設師団番号は第110師団に変更された。(この時すでに第13師団と第18師団は特設師団として1年前に出征していた) この新編成5コ警備師団は関東軍に配備される前に実戦訓練の為に、まず中国戦線への投入が行われる事になった。満州西部のハイラルに駐屯していた騎兵集団を中国戦線に転用される事が決定した為、第23師団だけ直接満州へ派遣された。実戦訓練の為に中国戦線への投入された第17師団含むの4コ師団は、中国戦線が広がり続けたため抜けられなくなり、ついに本来の編成目的である満洲に行くことは無かった。 師団は中国大陸に渡り中支那派遣軍戦闘序列に編入、一部部隊が武漢作戦に参戦する。その後師団は占領地警備、治安作戦に従事した。師団捜索隊は1940年7月に復帰、所属した装甲車中隊は歩兵団装甲車中隊となり、所属騎兵は各歩兵連隊に1コ小隊ずつ分属された。これは急激な部隊増で乗馬補充困難となり全軍の乗馬定数減の必要が生じ、一部を除く在支師団に乗馬数減の編成改正が行われた。軍備増強優先順位一位が満洲関東軍であり、反対に国力断発力回復、官民工業力向上のため在支部隊は毎年10万人の削減を参謀総長は陸軍大臣に求められており、その一部として処理された。 太平洋戦争開戦後も中国に駐屯した。1943年(昭和18年)9月に南方へ転用され、ニューブリテン島に渡った。第17歩兵団司令部・歩兵第81連隊など隷下部隊の約1/3はブーゲンビル島へ分遣され、1944年(昭和19年)7月に独立混成第38旅団へ改編されて師団から除かれた。第8方面軍隷下に移った師団はニューブリテン島中心地のラバウルやツルブにて連合軍の攻撃に耐えてニューブリテン島の戦いを展開、1945年(昭和20年)8月の終戦を迎えた。持久戦の間に2個混成連隊と師団捜索隊(2代目。第51師団捜索第51連隊の残存人員で編成)が新たに編合された。
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第二次編成
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第二次編成の独立混成第1旅団は、復員した第109師団の残置要員を基幹に、1939年(昭和14年)7月22日に華北で編成された。北支那方面軍直属部隊として河北方面の警備と治安維持を担当、邯鄲で終戦を迎えた。
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第二次編成
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第二次編成の独立混成第11旅団は、1939年(昭和14年)1月14日に浙江省嘉興で編成され、1942年(昭和17年)2月2日に第60師団に改編された。
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第二次編成
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「第109師団 (日本軍)」の記事における「第二次編成」の解説
「硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制」も参照 1944年(昭和19年)5月、父島要塞守備隊を基幹に再編成され、大本営直属の小笠原兵団(兵団長:栗林忠道・第109師団長兼務)の隷下に入った。混成第1旅団を父島に、独立第2旅団を硫黄島に、混成第1連隊を母島に配備しアメリカ軍からの侵攻に備えた。1945年(昭和20年)2月16日からの硫黄島の戦いにおいて、栗林師団長のもと激戦を続けたが、同年3月26日に硫黄島守備隊は全滅(玉砕)した。その後、父島の混成第1旅団をもって第109師団を再編し、アメリカ軍の空襲を受けながら終戦まで守備を行った。
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第二次編成
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「第13師団 (日本軍)」の記事における「第二次編成」の解説
日中戦争が勃発すると日本本土から次々と師団が中国大陸に派遣され、同時に従来の常設師団から新たに特設師団が編成された。第13師団も、1937年(昭和12年)9月10日に留守第2師団の担当で復活し、上海派遣軍司令官松井石根大将の要請により、第9師団および第101師団とともに第二次上海事変の増援軍として上海戦線に赴いた。 上海戦の後は南京攻略戦に投入、1938年(昭和13年)2月14日には新設された中支那派遣軍戦闘序列に編入され徐州会戦を戦い、7月4日には第2軍に編入武漢作戦に参戦した。その後11月9日に第11軍に編入され、中国戦線でのさまざまな作戦に参戦した。 太平洋戦争開戦後も第11軍隷下華中に在り、1944年(昭和19年)には大陸打通作戦第二段の湘桂作戦に参加して広西省に進攻、9月11日に全県を攻略し、11月1日には桂林第2・第3飛行場を占領、一時貴州省まで進出し、12月2日には独山を占領した。作戦終了後は第11軍司令部の置かれた柳州の西側の宜山方面の警備を担当した。なお南側の南寧方面は第3師団、北東側の桂林方面は第58師団が担当した。1945年(昭和20年)になると戦局の変化から広西省方面の日本軍は撤退を開始、4月18日に第3師団とともに支那派遣軍直轄師団となり、南京方面に向けて移動中湖南省長沙で終戦を迎えた。 師団は当初、歩兵第65連隊・歩兵第104連隊・歩兵第58連隊・歩兵第116連隊を隷下に持つ四単位師団として編成されたが、1942年(昭和17年)12月には、歩兵第58連隊を第31師団に転用し、三単位編制に改編された。
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第二次編成
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「第114師団 (日本軍)」の記事における「第二次編成」の解説
太平洋戦争(大東亜戦争)末期になると、華北に駐屯していた第26師団がフィリピン戦線に、第62師団が沖縄に転用されたため、中国に在った独立歩兵旅団(独立混成旅団)を改編し、占領地の警備と治安維持を目的に編成した治安師団の一つであり、同時に第115師団・第117師団・第118師団が新設された。これら4個師団は、1944年(昭和19年)7月10日、軍令陸甲第79号下令により、編成が発令された。 第114師団は、華北の山西省臨汾運城において独立歩兵第3旅団の復帰人員と第69師団からの転属者などを基幹に山西省臨汾で再編成された。編成後、第1軍に編入され、第69師団より臨汾周辺の警備を引き継いで、山西省の治安粛正の各討伐作戦に従事した。 師団の編制は、4個独立歩兵大隊から成る歩兵旅団を2個持ち、砲兵を欠いた丙師団として誕生した。後に師団砲兵隊が所属した。 1945年(昭和20年)8月9日にソ連が対日参戦に際して、平津地区転進を下令され、移動準備中に終戦を迎えた。同地で終戦を迎えたが一部の将兵は残留し閻錫山の指揮の下国共内戦のなか中共軍と戦った。
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第二次編成
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「第108師団 (日本軍)」の記事における「第二次編成」の解説
1944年(昭和19年)7月、満州の第9独立守備隊を基幹に再編成され、関東防衛軍の隷下に入り、満州と中国の境界線付近の警備等を担当した。1945年(昭和20年)7月、第3方面軍の直轄となり、翌月、ソ連軍の侵攻に備えたが、本格的な戦闘となる前に終戦を迎えた。
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