百日天下とは? わかりやすく解説

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ひゃくにち‐てんか【百日天下】

読み方:ひゃくにちてんか

ナポレオン1世1815年エルバ島脱してパリ入り帝政復活してから、ワーテルローの戦い敗北し退位する至った100日間支配

短期間政権をいうたとえ。


百日天下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 07:52 UTC 版)

百日天下(ひゃくにちてんか、フランス語: Cent-Jours, 英語: Hundred Days)は、ひとたびヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世が、1815年3月1日に帰国して帝位を取り戻し大陸軍(グランダルメ)を再建した後に、ワーテルロー会戦に敗れて再びその地位を追われるまでの、およそ100日間[1][注 1]の一時的支配のことを言う。


注釈

  1. ^ 開始日をいつに見るかが、フランス再上陸の3月1日、あるいはパリ入城の3月20日、またはウィーン会議が中断された3月13日など様々あり、また終結日もワーテルロー会戦の6月18日と、退位日の6月22日の二つの考え方があって、実際の期間は94日間から113日間の間で諸説ある。
  2. ^ ベルティエは6月1日に死亡している。自殺説と他殺説あり。
  3. ^ ナポレオンがセントヘレナ島に送られたことを「流刑」と表現されることがしばしあるが、この措置は裁判や条約に基づいたものではない。

出典

  1. ^ a b デジタル大辞泉『百日天下』 - コトバンク
  2. ^ ベルト 2001, pp. 212–216
  3. ^ ベルト 2001, pp. 218–220
  4. ^ ベルト 2001, pp. 220–221
  5. ^ a b ベルト 2001, p. 221
  6. ^ ベルト 2001, p. 222
  7. ^ a b ベルト 2001, p. 223
  8. ^ a b c d ベルト 2001, p. 230
  9. ^ ベルト 2001, p. 228
  10. ^ Guillaume Marie Anne Brune, Marshal (1804)”. napoleon-series.org. 2013年7月14日閲覧。
  11. ^ ベルト 2001, pp. 230–231
  12. ^ ベルト 2001, pp. 221–223
  13. ^ Joachim Murat, King of Naples, 1808-1815, Marshal (1804)”. napoleon-series.org. 2013年7月14日閲覧。


「百日天下」の続きの解説一覧

百日天下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)

マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「百日天下」の解説

この頃フランス国民はマリー・テレーズ地味な衣装不機嫌さ嫌ったが、極寒ミタウからワルシャワまで叔父支えて旅した勇気称え新たなアンティゴーネ」と呼んだ。彼女はブルボン家再興熱意燃やしフランス各地視察したアングレーム公もそれを支援した1815年3月12日滞在先のボルドーアングレーム公が到着するが、ナポレオン逃亡一報聞くと、アングレーム公は引き返してニーム4000人の国王軍指揮するマリー・テレーズボルドー残り小さな国王軍主導権握った3月20日からのナポレオンの百日天下に際しては、ガロンヌ川岸のベルトラン・クローレル率い革命軍対岸陣取るブルボン家軍が緊張する中、屋根のない馬車立ち上がり、反ナポレオン挙兵演説行ったその内容翌日ロンドンの『ザ・タイムズ』に紹介された。これを知ったナポレオンマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄したヘント逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争ヘンリー6世のためにランカスター家軍隊指揮したマーガレット・オブ・アンジュー例えたマリー・テレーズその後再び亡命し4月19日イギリス上陸。まずブルボン公手紙けしかけるヘント逃れていたルイ18世送った手紙では、ナポレオン「あの男」呼んだマリー・テレーズ亡命中の夫との書簡一部奪ったナポレオンにその中身公開され怒り狂った7月29日パリに戻るが、臆病なルイ18世うんざりしていた。帰国するやいなや、彼女はテュイルリー宮殿にあるNの文字蜜蜂装飾をすべて取り払うよう命じた。そしてルイ18世頼み100日天下の時期自分王座につけるよう民衆煽ったルイ・フィリップを、フランスから追放させた。

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百日天下(第七次対仏大同盟)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:41 UTC 版)

ナポレオン戦争」の記事における「百日天下(第七次対仏大同盟)」の解説

外交関係第七次対仏大同盟戦役フランス戦役 (1815年)参照 ナポレオンの退位後、9月1日からウィーン会議開催され戦後体制について話し合われていたが、各国利害絡んで遅々として進展しなかった。フランスではルイ18世即位して王政復古なされたが、その政治国民の不満を買っていた。こうした状況の隙を突いて1815年2月26日ナポレオンエルバ島脱出しフランスへ上陸する国民もこれを歓迎しルイ18世逃亡3月20日ナポレオンパリ入城して再び帝位就いた各国第七次対仏大同盟結成してナポレオン打倒かかったベルギー方面ウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍ブリュッヒャー率いプロイセン軍展開したナポレオンフランス軍主力率いてベルギー向かい6月15日リニーの戦いプロイセン軍勝利グルーシー別働隊与えてプロイセン軍追撃させ、自身ワーテルローでイギリス・オランダ連合軍対峙した。 6月18日ワーテルローの戦い開始された。フランス軍とイギリス・オランダ連合軍激戦繰り広げている最中グルーシー追撃振り払ったプロイセン軍続々戦場へ到着しフランス軍側面猛攻掛けた。これが決定的な打撃となり、フランス軍潰走した。プロイセン軍夜通し追撃行いフランス軍は完全に崩壊した。 こうしてナポレオン復活は百日天下に終わった6月22日ナポレオンは再び退位しセントヘレナ島配流となったフランス革命以降断続的に20年以上にわたって続いた戦乱は、11月20日第二次パリ条約締結をもって正式に終結した

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百日天下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 08:57 UTC 版)

フランス復古王政」の記事における「百日天下」の解説

詳細は「百日天下」を参照 密偵知らせ受けてこのような不満の噴出状況とらえたナポレオンは、1815年3月20日エルバ島からパリへ帰還した。ナポレオン街道英語版)の途上討伐隊は、国王忠誠誓ったはずのものも含めほとんどが元皇帝側に寝返った3月19日ルイ18世パリからヘントへの逃亡追い込まれナポレオンワーテルローの戦い敗れて追放されるまで帰国できなかった。 ナポレオン人気落ち込みつつあったものの、ルイ18世不在の間、伝統的に王党派の強いヴァンデ小規模な暴動鎮圧されたほかには、王政復古支持する破壊活動はほとんどなかった。

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百日天下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 04:49 UTC 版)

ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の記事における「百日天下」の解説

1815年1月2日バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された。同年穀物法をめぐる暴動勃発したとき、ロンドン小部隊を指揮したナポレオンの百日天下では4月15日初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーよりイギリス騎兵指揮任せられ6月18日ワーテルローの戦い直前には同盟軍騎兵指揮任せられた。しかし、糧秣補給もあり、イギリス騎兵広範囲散らばっており、6月16日カトル・ブラの戦いではこれが仇となり、騎兵歩兵支援に間に合わなかった。その後6月17日同盟軍カトル・ブラからワーテルロー撤退したとき、パジェット伯爵撤退援護した18日ワーテルローの戦いでは衛兵隊を率いて2回突撃した後、重騎兵率いて3度目騎兵突撃敢行フランス衛兵隊を撃破した。『ブリタニカ百科事典』第9版と第11版はアクスブリッジ伯爵戦功ウェリントン公爵に次ぐと評した。しかし、戦闘最後になって、フランス軍砲撃アクスブリッジ伯爵右足にあたりその夜には右足切除余儀なくされた。3週間後、アクスブリッジ伯爵ロンドン戻ったワーテルローでの戦功片足失ったことにより、イギリス議会アクスブリッジ伯爵への1,200ポンド年金可決したが、伯爵はこれを固辞代わりに7月4日連合王国貴族であるアングルシー侯爵叙された。8月21日にはオーストリア帝国からマリア・テレジア軍事勲章を、ロシア帝国から聖ゲオルギー勲章英語版)を授与された。1816年、ロイヤル・ゲルフ勲章英語版)を授与された。1818年3月13日ガーター勲章授与された。1819年8月12日陸軍大将昇進した。 「アクスブリッジ卿の足(英語版)」はのちにワーテルローで「埋葬」された。ロンドン戻ったアングルシー侯爵関節付き義足使用し、この義足はのちに「アングルシーの足」(Anglesey leg)と呼ばれたまた、記念として1816年アングルシー侯爵円柱英語版)(トマス・ハリソン英語版設計)がアングルシー建てられ1859年円柱の上アングルシー侯爵銅像(マシュー・ノーブル(英語版)作)が建てられた。

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