ひゃくにち‐てんか【百日天下】
百日天下
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百日天下(ひゃくにちてんか、フランス語: Cent-Jours, 英語: Hundred Days)は、ひとたびヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世が、1815年3月1日に帰国して帝位を取り戻し大陸軍(グランダルメ)を再建した後に、ワーテルロー会戦に敗れて再びその地位を追われるまでの、およそ100日間[1][注 1]の一時的支配のことを言う。
注釈
- ^ 開始日をいつに見るかが、フランス再上陸の3月1日、あるいはパリ入城の3月20日、またはウィーン会議が中断された3月13日など様々あり、また終結日もワーテルロー会戦の6月18日と、退位日の6月22日の二つの考え方があって、実際の期間は94日間から113日間の間で諸説ある。
- ^ ベルティエは6月1日に死亡している。自殺説と他殺説あり。
- ^ ナポレオンがセントヘレナ島に送られたことを「流刑」と表現されることがしばしあるが、この措置は裁判や条約に基づいたものではない。
出典
- ^ a b デジタル大辞泉『百日天下』 - コトバンク
- ^ ベルト 2001, pp. 212–216
- ^ ベルト 2001, pp. 218–220
- ^ ベルト 2001, pp. 220–221
- ^ a b ベルト 2001, p. 221
- ^ ベルト 2001, p. 222
- ^ a b ベルト 2001, p. 223
- ^ a b c d ベルト 2001, p. 230
- ^ ベルト 2001, p. 228
- ^ “Guillaume Marie Anne Brune, Marshal (1804)”. napoleon-series.org. 2013年7月14日閲覧。
- ^ ベルト 2001, pp. 230–231
- ^ ベルト 2001, pp. 221–223
- ^ “Joachim Murat, King of Naples, 1808-1815, Marshal (1804)”. napoleon-series.org. 2013年7月14日閲覧。
- 1 百日天下とは
- 2 百日天下の概要
- 3 経過
- 4 白色テロ
- 5 ナポリ王ミュラの独断
百日天下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「百日天下」の解説
この頃のフランス国民はマリー・テレーズの地味な衣装や不機嫌さを嫌ったが、極寒のミタウからワルシャワまで叔父を支えて旅した勇気を称え「新たなアンティゴーネ」と呼んだ。彼女はブルボン家の再興に熱意を燃やし、フランス各地を視察した。アングレーム公もそれを支援した。1815年3月12日、滞在先のボルドーにアングレーム公が到着するが、ナポレオン逃亡の一報を聞くと、アングレーム公は引き返してニームで4000人の国王軍を指揮する。マリー・テレーズはボルドーに残り、小さな国王軍の主導権を握った。3月20日からのナポレオンの百日天下に際しては、ガロンヌ川岸のベルトラン・クローレル率いる革命軍と対岸に陣取るブルボン家軍が緊張する中、屋根のない馬車に立ち上がり、反ナポレオンの挙兵演説を行った。その内容は翌日、ロンドンの『ザ・タイムズ』に紹介された。これを知ったナポレオンはマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄した。ヘントに逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争でヘンリー6世のためにランカスター家の軍隊を指揮したマーガレット・オブ・アンジューに例えた。 マリー・テレーズはその後再び亡命し、4月19日にイギリスに上陸。まずブルボン公を手紙でけしかける。ヘントに逃れていたルイ18世に送った手紙では、ナポレオンを「あの男」と呼んだ。マリー・テレーズは亡命中の夫との書簡の一部を奪ったナポレオンにその中身を公開され、怒り狂った。7月29日にパリに戻るが、臆病なルイ18世にうんざりしていた。帰国するやいなや、彼女はテュイルリー宮殿にあるNの文字、蜜蜂と鷲の装飾をすべて取り払うよう命じた。そしてルイ18世に頼み、100日天下の時期に自分を王座につけるよう民衆を煽ったルイ・フィリップを、フランスから追放させた。
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百日天下(第七次対仏大同盟)
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「ナポレオン戦争」の記事における「百日天下(第七次対仏大同盟)」の解説
外交関係は第七次対仏大同盟、戦役はフランス戦役 (1815年) を参照 ナポレオンの退位後、9月1日からウィーン会議が開催され、戦後体制について話し合われていたが、各国の利害が絡んで遅々として進展しなかった。フランスではルイ18世が即位して王政復古がなされたが、その政治は国民の不満を買っていた。こうした状況の隙を突いて、1815年2月26日にナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへ上陸する。国民もこれを歓迎し、ルイ18世は逃亡。3月20日、ナポレオンはパリに入城して再び帝位に就いた。 各国は第七次対仏大同盟を結成してナポレオンの打倒にかかった。ベルギー方面にウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍とブリュッヒャー率いるプロイセン軍が展開した。ナポレオンはフランス軍主力を率いてベルギーへ向かい、6月15日、リニーの戦いでプロイセン軍に勝利。グルーシーに別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させ、自身はワーテルローでイギリス・オランダ連合軍と対峙した。 6月18日、ワーテルローの戦いが開始された。フランス軍とイギリス・オランダ連合軍が激戦を繰り広げている最中、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が続々と戦場へ到着し、フランス軍の側面に猛攻を掛けた。これが決定的な打撃となり、フランス軍は潰走した。プロイセン軍は夜通しの追撃を行い、フランス軍は完全に崩壊した。 こうしてナポレオンの復活は百日天下に終わった。6月22日、ナポレオンは再び退位し、セントヘレナ島へ配流となった。フランス革命以降断続的に20年以上にわたって続いた戦乱は、11月20日の第二次パリ条約の締結をもって正式に終結した。
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百日天下
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詳細は「百日天下」を参照 密偵の知らせを受けてこのような不満の噴出の状況をとらえたナポレオンは、1815年3月20日、エルバ島からパリへ帰還した。ナポレオン街道(英語版)の途上、討伐隊は、国王に忠誠を誓ったはずのものも含めほとんどが元皇帝側に寝返った。3月19日、ルイ18世はパリからヘントへの逃亡に追い込まれ、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて再追放されるまで帰国できなかった。 ナポレオン人気は落ち込みつつあったものの、ルイ18世が不在の間、伝統的に王党派の強いヴァンデで小規模な暴動が鎮圧されたほかには、王政復古を支持する破壊活動はほとんどなかった。
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百日天下
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「ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の記事における「百日天下」の解説
1815年1月2日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された。同年に穀物法をめぐる暴動が勃発したとき、ロンドンで小部隊を指揮した。ナポレオンの百日天下では4月15日に初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーよりイギリス騎兵の指揮を任せられ、6月18日のワーテルローの戦いの直前には同盟軍の騎兵の指揮も任せられた。しかし、糧秣の補給もあり、イギリス騎兵は広範囲に散らばっており、6月16日のカトル・ブラの戦いではこれが仇となり、騎兵が歩兵の支援に間に合わなかった。その後、6月17日に同盟軍がカトル・ブラからワーテルローに撤退したとき、パジェット伯爵は撤退を援護した。18日のワーテルローの戦いでは衛兵隊を率いて2回突撃した後、重騎兵を率いて3度目の騎兵突撃を敢行、フランスの衛兵隊を撃破した。『ブリタニカ百科事典』第9版と第11版はアクスブリッジ伯爵の戦功をウェリントン公爵に次ぐと評した。しかし、戦闘の最後になって、フランス軍の砲撃がアクスブリッジ伯爵の右足にあたり、その夜には右足の切除を余儀なくされた。3週間後、アクスブリッジ伯爵はロンドンに戻った。 ワーテルローでの戦功と片足を失ったことにより、イギリス議会はアクスブリッジ伯爵への1,200ポンドの年金を可決したが、伯爵はこれを固辞、代わりに7月4日に連合王国貴族であるアングルシー侯爵に叙された。8月21日にはオーストリア帝国からマリア・テレジア軍事勲章を、ロシア帝国から聖ゲオルギー勲章(英語版)を授与された。1816年、ロイヤル・ゲルフ勲章(英語版)を授与された。1818年3月13日、ガーター勲章を授与された。1819年8月12日、陸軍大将に昇進した。 「アクスブリッジ卿の足(英語版)」はのちにワーテルローで「埋葬」された。ロンドンに戻ったアングルシー侯爵は関節付きの義足を使用し、この義足はのちに「アングルシーの足」(Anglesey leg)と呼ばれた。また、記念として1816年にアングルシー侯爵の円柱(英語版)(トマス・ハリソン(英語版)設計)がアングルシーで建てられ、1859年に円柱の上にアングルシー侯爵の銅像(マシュー・ノーブル(英語版)作)が建てられた。
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