テュイルリー宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 03:40 UTC 版)
座標: 北緯48度51分50秒 東経2度19分34秒 / 北緯48.86389度 東経2.32611度
- 1 テュイルリー宮殿とは
- 2 テュイルリー宮殿の概要
- 3 ギャラリー
テュイルリー宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:07 UTC 版)
「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事における「テュイルリー宮殿」の解説
公妃は1789年春の全国三部会(英語版)の開会式典に参列した。1789年7月、フランス革命初期にバスティーユ襲撃が起こった際、公妃はお気に入りの侍女ラージュ伯爵夫人を連れてスイスへの観光旅行に出かけていた。9月に帰国すると病気がちの義父パンティエーヴル公の滞在する田舎の城で義父の看病に当たった。このため1789年10月5日にヴェルサイユ行進が起こった際は、義父と共にオマール(英語版)にいた。10月7日にヴェルサイユ行進の報を聞くと、公妃はすぐに国王一家の移送先であるパリのテュイルリー宮殿に馳せ参じ、総監の職務を再開した。公妃は王妹マダム・エリザベートとともに、宮殿内の王妃の翼と同階のパヴィヨン・ド・フロール(英語版)内のアパルトマンを割り当てられた。義父の療養先とパッシー(英語版)地区の自宅を短期間訪れるとき以外、彼女は常にテュイルリー宮殿に常住するようになる。 テュイルリー宮殿でも、ヴェルサイユで行われてきた宮廷の儀礼や催事がある程度復活したが、ランバル公妃は総監としてその全ての行事に参加した。彼女は王妃の公私の生活において常に側に控えた。公妃は国王一家の1790年夏のサン=クルー城(英語版)滞在、シャン・ド・マルスでの連盟祭(英語版)にも随行した。革命前は王妃の名において催事を取り仕切るのを嫌がっていたランバルは、今や王妃の政治目的に賛同する国王忠誠派の貴族たちを参集するための舞踏会・晩餐会を、積極的に催すようになった。公妃のサロンは、王妃が国王忠誠派に寝返らせようと考えていた国民議会議員たちと、王妃が会って話をする場を提供した。王妃は宮殿内のランバル公妃のアパルトマンを、ミラボーとの会見の場として利用した。 一方、ランバル公妃は情報提供者のネットワークを通じて、宮廷のスタッフたちの王室に対する忠誠心を調査してもいた。王妃の侍女頭カンパン夫人もランバル公妃の調査対象者の1人で、公妃はカンパン夫人がある国民議会議員を自室に招き入れたとの情報を元に夫人の王室への忠誠心を疑ったが、公妃は自身のスパイ網を使って件の情報を調査した結果、疑いが晴れたと、公妃自身から説明されたという。「公妃は王妃の家政機関に所属する全スタッフの一覧表を私の目の前に広げ、彼ら一人一人について私が把握していることを話すように求めた。幸い私は話すだけの価値のある情報を持っていたので、公妃はそれを全てメモに書きつけた。」 ポリニャック公爵夫人ら王妃の取り巻きたちの大部分が革命初期に国外に脱出した。そのため、「王妃の寵臣として民衆の憎しみの矛先を向けられるのは、私の側に一人残って働く貴女なのですよ」とマリー・アントワネットは公妃に警告し、パリの人々が大っぴらに公妃を罵っていることを心配した。ランバル公妃も自身を中傷するパンフレットの一部を目にするようになった。 義妹のオルレアン公爵夫人が国王を裏切った夫オルレアン公との離婚を求めた際、ランバル公妃は義妹を応援したため、オルレアン公との友情も決裂した。オルレアン公はこれまでランバル公妃を王妃とのつなぎ役として利用してきたが、実際には全く信用していなかった。ランバルが自身の夫が性病で命を落とし、自身も性病に侵されたのはオルレアン公が夫に放蕩の手ほどきをしたからだと難詰すると、オルレアン公はランバル公妃と絶交した。
※この「テュイルリー宮殿」の解説は、「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の解説の一部です。
「テュイルリー宮殿」を含む「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事については、「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の概要を参照ください。
テュイルリー宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 07:17 UTC 版)
セーヌ川の北岸には中世以来の要塞があり、14世紀頃からは改造されて王宮となった。これがルーヴル宮殿である。宮殿は歴代の王たちによって増改築されたが、16世紀には手狭となっていた。そこで1563年から王母カトリーヌ・ド・メディシスによってルーヴルの西約500mの城壁外にテュイルリー宮殿の建設が始められた。宮殿の西には幅300m、奥行き500mほどの庭園が設けられた。 17世紀後半のルイ14世の時代、財務総監ジャン=バティスト・コルベールは造園家アンドレ・ル・ノートルにテュイルリー庭園の改造を命じ、庭園は宮殿の軸を中心に左右の対称性を強調した形に改められた。また庭園から西へは中心軸を延長する形で並木道が設けられた。これは当初テュイルリー通りと名付けられていたが、1709年にシャンゼリゼと改称された。1724年には通りはシャイヨーの丘(現シャルル・ド・ゴール広場)まで延長された。
※この「テュイルリー宮殿」の解説は、「パリの歴史軸」の解説の一部です。
「テュイルリー宮殿」を含む「パリの歴史軸」の記事については、「パリの歴史軸」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- テュイルリー宮殿のページへのリンク