三省堂 大辞林 |
マリーアントワネット [Marie Antoinette]
映画情報 |
マリー・アントワネット
| 原題: | Marie-Antoinette |
| 製作国: | フランス イタリア |
| 製作年: | 1956 |
| 配給: | 映配 |
| スタッフ | |
| 監督: | Jean Delannoy ジャン・ドラノワ |
| 脚本: | Jean Delannoy ジャン・ドラノワ |
| Bernard Zimmer ベルナール・ジンメル | |
| Philippe Erlanger フィリップ・エルランジェ | |
| 撮影: | Pierre Montazel ピエール・モンタゼル |
| 音楽: | Jacques Simonot ジャック・シモノ |
| キャスト(役名) |
| Michele Morgan(1) ミシェル・モルガン (Marie Antoinette) |
| Richard Todd リチャード・トッド (Comte Axel de Fersen) |
| Jacques Morel ジャック・モレル (Louis 16) |
| Jeanne Boitel ジャンヌ・ボワテル (Mme Campan) |
| Aime Clariond エーメ・クラリオン (Louis 15) |
| Suzy Carrier シュジ・キャリエ (Mme Elizabeth) |
| Madeleine Rousset (Mme de Tourzel) |
| Guy TreJan ギイ・トレジャン (Latayette) |
| Marina Berti マリナ・ベルティ (Contesse de Polignac) |
| 解説 |
| 王妃の身でスウェーデンの青年士官と恋におち、結ばれぬ悲恋の生涯を断頭台に終えたマリー・アントワネットの物語。監督は「首輪のない犬」のジャン・ドラノワ、脚本はドラノワとベルナール・ジンメル、歴史小説作家として知られるフィリップ・エルランジェの共同。台詞はジンメルの担当。撮影は「現金に手を出すな」のピエール・モンタゼル、音楽はジャック・シモノ。出演は「ナポレオン(1955)」のミシェル・モルガン、「あの日あのとき」のリチャード・トッド、舞台出身のジャック・モレル、シュジ・キャリエなど。 |
| ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
| フランス国王ルイ十五世が倒れた夜、ただ一人皇太子妃マリー・アントワネット(ミシェル・モルガン)だけが姿をみせなかった。その時彼女は舞踏会で外国の美青年とたわむれていた。数日後老王は世を去り、ルイ十六世(ジャック・モレル)が王位についた。その即位を祝って集った人々の中にくだんの青年もいた。舞踏会の佳人が王妃と知った彼は、翌日フランスを去った。七年は過ぎ、王妃はある日の謁見でかの外国紳士に逢った。スエーデンの竜騎兵中尉フェルサン(リチャード・トッド)。二人の仲は忽ち人々の噂に上り、それを諷刺した戯れ歌まで流行った。フェルサンは王妃の立場を救うためアメリカへ渡った。二人の手紙の一通が国王の手にわたり、国王は心を痛めたが、寛大な王は、彼に二度と会わぬ約束で彼女を赦した。彼女はこの約束を守り、フランスに帰ったフェルサンを遠隔の地に転属させた。そこで彼は王妃の噂話に矢も楯もたまらず宮殿に馳つけ彼女を罵倒した。この怒りは王妃にとってかえって幸福のしるしだった。いまわしい噂とは、彼女を陥し入れようとする宮廷内の陰謀に過ぎなかったから。それから彼女にとってフェルサンは、無力の国王に代るなくてはならない人となった。やがて革命が勃発、人質となった国王一家のためフェルサンは逃亡計画を立案。彼の尽力も空しく一家は連れ戻された。ある日、フェルサンは危険を侵して王妃の許へ新しい逃亡計画を持って来たが、国王は賛成しなかった。フェルサンは最早外国の援助に頼る他ないと考えた。これを知ったパリ市民は激昂。かくてルイ十六世は革命者の手でギロチンへ送られた。フェルサンは王妃の救出に最後の努力をしたがそれも徒労に終った。今は白髪となった王妃は、群衆の怒号の中を断頭台へと進む。 |
マリー・アントワネット
| 原題: | MARIE ANTOINETTE |
| 製作国: | アメリカ フランス 日本 |
| 製作年: | 2006 |
| 配給: | 東宝東和=東北新社 |
| スタッフ | |
| 監督: | Sofia Coppola ソフィア・コッポラ |
| 製作: | Ross Katz ロス・ケイツ |
| Sofia Coppola ソフィア・コッポラ | |
| Callum Greene カルム・グリーン | |
| 製作総指揮: | Fred Roos フレッド・ルース |
| Francis Ford Coppola フランシス・フォード・コッポラ | |
| 原作: | Antonia Fraser アントニア・フレイザー |
| 脚本: | Sofia Coppola ソフィア・コッポラ |
| 音楽プロデューサー: | Brian Reitzell ブライアン・レイツェル |
| プロダクション・デザイン: | K.K. Barrett K.K.バーレット |
| 編集: | Sarah Flack サラ・フラック |
| 衣装(デザイン): | Milena Canonero ミレナ・カノネロ |
| 字幕: | 松浦美奈 マツウラミナ |
| キャスト(役名) |
| Kirsten Dunst キルスティン・ダンスト (Marie Antoinette) |
| Jason Schwartzman ジェイソン・シュワルツマン (King Louis XVI) |
| Asia Argento アーシア・アルジェント (Madome Du Barry) |
| Marianne Faithfull マリアンヌ・フェイスフル (Maria Teresa) |
| Judy Davis ジュディ・デイヴィス (Comtesse de Noailles) |
| Rip Torn リップ・トーン (King Louis XV) |
| Steve Coogan スティーヴ・クーガン (Count Mercy D'Argenteau) |
| Jamie Dornan ジェイミー・ドーナン (Count Axel Fersen) |
| Rose Byrne ローズ・バーン (Duchesse de Polignac) |
| Aurore Clement オロール・クレマン (Duchesse de Chartres) |
| Shirley Henderson シャーリー・ヘンダーソン (Aunt Sophie) |
| Molly Shannon モリー・シャノン (Aunt Victoire) |
| Danny Huston ダニー・ヒューストン (Joseph) |
| Clementine Poidatz クレメンティーヌ・ポアダッツ (Comtesse de Provence) |
| 解説 |
| 14歳でフランス王室に輿入したマリー・アントワネットが、やがて革命の嵐にのまれて宮殿を後にするまでの19年の歳月を、実際のヴェルサイユ宮殿で行なわれた撮影によって絢爛豪華に描いた宮廷絵巻。監督はソフィア・コッポラ。主演はキルスティン・ダンスト。共演はジェイソン・シュワルツマン、アーシア・アルジェント。 |
| ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
| オーストリア皇女アントワーヌ(キルスティン・ダンスト)は、フランス王室とオーストリア王室の同盟の証として14歳でフランス王太子のもとに嫁ぐことになる。彼女は未来の王妃マリー・アントワネットとしてフランスの地に踏み入る。ヴェルサイユ宮殿に到着したマリーは国王ルイ15世や宮廷貴族たちに歓迎される。王によって紹介された15歳の王太子ルイ・オーギュスト(ジェイソン・シュワルツマン)は未だ幼い少年のようであったが、二人は宮殿の聖堂で華やかな結婚式を挙げる。マリーのヴェルサイユでの奇妙な生活がここから始まった。そんな中、夫オーギュストはマリーに関心を示さず、同じベッドに寝ていても指一本触れようとしなかった。やがて虚しさを紛らわせるかのように、マリーは浪費に楽しみを見出し始める。そしてルイ15世が崩御し、オーギュストはルイ16世として王位に就き、マリーは王妃となった。しかしルイはマリーと体を重ねようとせず、マリーの享楽の日々はさらにエスカレートしていった。そんな折、マリーのもとを実兄のヨーゼフ2世が訪ね、彼のアドバイスによってマリーとルイはようやく結ばれ、娘が誕生する。母となって生活を一変させるマリー。別荘で娘とともにすごし、マリーは社交場では得られなかった安らぎを感じ始める。しかしその頃、既にフランスには危機が迫っていた。国の財政は破綻寸前、飢えに苦しむ国民の怒りは宮殿で不自由なく暮らすマリーたちに向けられていたのだった。そして怒り狂った群衆がバスティーユ監獄を襲撃したという報告が届くに至る。側近は国外脱出を進言するが、ルイはヴェルサイユにとどまる事を決め、マリーも彼のそばにとどまると言い切った。初めて夫婦としての信頼に結ばれる二人。しかし、暴徒と化した群衆がいよいよ押し寄せ、マリーたちが宮殿を離れる時が来た。マリーは一家と共に馬車に乗り込み、ヴェルサイユに別れを告げるのだった。 |
ウィキペディア |
マリー・アントワネット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/08 01:57 UTC 版)
| マリー・アントワネット Marie Antoinette |
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|---|---|
| フランス王妃 | |
マリー・アントワネット(ヴィジェ=ルブラン画)
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| 在位 | 1774年5月10日 - 1792年9月21日 |
| 全名 | マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ名) |
| 出生 | 1755年11月2日 |
| 死去 | 1793年10月16日(満37歳没) |
| 埋葬 | 1815年1月21日 |
| 配偶者 | フランス王ルイ16世 |
| 子女 | マリ・テレーズ ルイ=ジョゼフ・ド・フランス ルイ17世 マリ・ソフィ・ベアトリス |
| 父親 | 神聖ローマ皇帝フランツ1世 |
| 母親 | マリア・テレジア |
マリ・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ(仏: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
ハプスブルク=ロートリンゲン家の出身で、オーストリア大公マリア・テレジアとその夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの十一女。結婚前のドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(独: Maria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringen)。フランス革命中の1793年に刑死した。
目次 |
生涯
幼少期・結婚まで
マリア・アントーニアは1755年11月2日、ウィーンで誕生した。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセン王国の脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。
1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
宮廷生活
デュ・バリー夫人との対立
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]。
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。
結婚生活
マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存する)。さらに賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれるとピッタリと止めている。
また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようである。
フランス王妃として
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。
ローザ・ベルタンという新進ファッションデザイナーのドレスを好んで着ており、ローザ・ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。
また、アントワネットはファッションに浪費はしたが、凝ったスタイルのファッションは好まず、簡素なデザインのものを好んだ。プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、この頃ローザ・ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。ここではポリニャック伯夫人などの、極端に寵愛したお気に入りの少数の貴族達のみしか出入りできなかった。
こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
フランス革命
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック伯夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
1791年6月20日、計画は実行に移され、ルイ一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすためにルイとアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
革命裁判
1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。息子である王位継承者のルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー牢獄に移され、その後裁判が行われたが、結果は初めから決まっていた。急進化する革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてアントワネットを欲していた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に再び発見され、マリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。
ギロチン処刑
遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われる。そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った(ルイ16世の場合は馬車だった)。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。その最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。
通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたとの説もあるが、これは真実ではない。しかしこのような噂話が実しやかに語られるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠にはなろう。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[3]に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[4]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。
評価
その後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。現在では、後述の「パンがなければ」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、その殆どが中傷やデマだということが判明している。ただし、彼女が一部の寵臣のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたこと、また無類の浪費家でギャンブルに耽ったことは事実であり、彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出された。
しかしながら、マリー・アントワネットの浪費だけでフランス一国の財政が傾いた訳ではない。1778年の場合を例に取ると、王室および特権貴族の出費は3600万リーブルであり国全体の6%程度に過ぎず、彼女の支出はさらにその一部である。フランスのシンボルたる王妃としての体裁を繕うための出費が含まれると考えれば、「彼女がフランス財政を崩壊させた」ということはあり得ないと言える。既にフランスの財政は先代ルイ15世の時代から傾いていたのであり、当時の貴族は免税の特権があった。また、アントワネットが所有したと言われる「60万リーブルのドレス」「50万リーブルの耳飾り」と言った豪華な品々も現在では誇張が含まれていたとされ、信憑性が疑問視されている。
マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。彼女はフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取り、あえて旧体制を守ろうとしたのである。このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ(外敵通牒)、それだけでも死に値する罪状となったのである。彼女自身は王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え上がらせる結果となってしまうのである。
このように、不幸な王妃の代表格といわれることも多い。しかし、夫ルイ16世は彼女以外に寵姫や愛人を持つこともなく、断頭台に登る間際まで彼女を案じる手紙(彼女には何の落ち度も無いことを訴える内容のもの)を残すなど、妻としては幸福な一生だったとも言える。その幸福が王政廃止から二人が処刑される間のほんの短い間であったとしても。死刑が決定した直後のマリー・アントワネットがエリザベート王女にあてた書簡には、「犯罪者として処刑されるのではないので、何ら恥ずべきことではない」といった内容が記されていた。民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられる。しかし、「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」という言葉のように、晩年は置かれた現実を把握をしていたとも言える。
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- ^ 角川書店 藤本ひとみ 王妃マリー・アントワネット―青春の光と影 P126「はみ出し者」~P159「元旦のできこと」まで。同筆者 マリー・アントワネット物語(中) 恋する姫君より。どちらも後書きに10冊近くの(後者のみ上巻に記載)参考文献を使用している。
- ^ 他に、フランス革命をモチーフとした作品『ベルサイユのばら』全単行本関連、第1巻にこの表現が存在している。
- ^ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪教会は旧敷地の一部に立ち、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである
- ^ 1794年3月25日に墓地は閉鎖されていた
- ^ 『学習漫画 世界の伝記 マリー・アントアネット』集英社
- ^
Jean-Jacques Rousseau: Les Confessions (Rousseau) - ウィキソース - ^ マリー・アントワネット 『マリー・アントワネット ピアノ曲集 (楽譜)』 佐伯真魚訳、中央アート出版社、2010(平成22)-5-31。ISBN 4813605869。
- 1 マリー・アントワネットの概要
- 2 「パンがなければ」の発言
- 3 人物
- 4 子女
固有名詞の分類
| フランスの王妃 |
シャルロット・ド・サヴォワ イザボー・ド・バヴィエール マリー・アントワネット イザベル・ド・エノー コンスタンス・ダルル |
| 映画作品 |
嵐の娘 イヌワシ風の砦 マリー・アントワネット 三里塚 辺田部落 円卓の騎士 |
| ハプスブルク=ロートリンゲン家 |
オットー・フォン・ハプスブルク マリア・カロリーナ・ダズブルゴ マリー・アントワネット マリア・テレジア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ エリーザベト・マリー・ペツネック |
| フランスのソーシャライト |
ニコラ・ド・ガンズビュール パウリーネ・フォン・メッテルニヒ テレーズ・カバリュス ジュリエット・レカミエ マリー・アントワネット |
マリー・アントワネットに関連した本
- ローズ・ベルタン ─ マリー・アントワネットのモード大臣 ミシェル サポリ 白水社
- 王妃マリー・アントワネット 青春の光と影 (角川文庫) 藤本 ひとみ 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇 (角川文庫) 藤本 ひとみ 角川書店(角川グループパブリッシング)
マリー・アントワネットに関係した商品
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