民権小説
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明治以来仮名垣魯文など政治的題材の小説も書かれており、詩歌まで視野に入れれば維新の志士による漢詩も政治文学と言える。1874年の板垣退助らによる民選議員設立建白以来の自由民権運動が広がり、1877年(明治10年)に設立された立志社の活動の中では民権歌謡という新しい歌が作られていた。1880年(明治13年)4月に集会条例による弾圧が開始される中、6月に自由民権論を主題にした政治小説として最初となる、戸田欽堂の『民権演義情海波瀾』が書かれた。江戸時代の人情本の流れを汲み、明治政府と民衆を芸者を争う2人の男に見立て、対立から和解に向かう姿を描いており、当時期待された「官民調和」の色合いを強く残している。だが、明治十四年の政変を機に板垣が自由党、大隈重信が立憲改進党を結成すると状況は大きく変化することになる。1882年に自由党が機関紙(自由新聞及び絵入自由新聞)を創刊、立憲改進党の参加者であった矢野龍渓は官を辞して自分がかつて副主筆を務めていた郵便報知新聞に復帰してその社主に就任、その影響によって事実上の立憲改進党機関紙の役目を果たすようになった。これらの新聞では自派の主張を分りやすく民衆に伝えるために政治小説が執筆・連載された(なお、こうした経緯からこれら機関紙の記者が兼業で執筆する例が多かった)。 代表的な作品としては、立憲改進党の矢野龍渓『経国美談』(1883年)、自由党系ではフランス革命の初期を扱った歴史小説である大デュマ『一医師の回想録』(Mémoires d'un médecin)を意訳した、自由党の思想を表したとされる桜田百衛『西洋血潮小暴風』(1883年)、ステプニャク『地底のロシヤ』を元に1881年のナロードニキによるアレクサンドル2世暗殺と悲劇的な結末を描いた宮崎夢柳『虚無党実伝記 鬼啾啾』(1885年)、小室案外堂『東洋民権百家伝』、末広鉄腸『雪中梅』(1886年)、などが挙げられる。他に東海散士の『佳人之奇遇』(1885-97年)は会津の遺民たる作者散士がイスパニアの政治家の令嬢、アイルランド独立闘士の娘との出会いに端を発する物語で、自由民権から始まり、ナショナリズム、国権拡張をテーマとしており、中村光夫は「当時の日本につたへられた物語の伝統と、新しく眼醒めた世界認識との見事な調和があった」と評している。 特に『経国美談』『佳人之奇遇』は当時の若者に強い支持を受け、『雪中梅』の写実主義的な筆致は後世の文学にも少なからず影響を与えた。当時の人気は北村透谷が「『雪中梅』は空前の大著述と賞へられ、『佳人の奇遇』は世界の一大奇書と唫ぜらる」(『女学雑誌』1890年1月「当世文学の潮模様」)と揶揄するほどだった。坪内逍遥は立憲改進党の作家として『概世士伝』(翻訳)、『諷誡京わらんべ』などを発表したが、やがて政治的な文学から離れて写実的芸術小説に進んだ。 また板垣退助が1882年にヨーロッパを歴遊した際にユゴーと会談し、当時のフランスやイギリスの政治・歴史ものを新聞に翻訳掲載することを勧められて多くの小説を買って帰り、坂崎紫瀾、栗原亮一、塚原渋柿園らによって翻訳、翻案された。 これらの多くは旧態依然の古風な漢文くずしの文章で類型的な人物描写であったために、坪内らによる近代文学への革新を促す動きにはつながらなかったが、当時の青年達には魅力的であり、近代的人間像を目指すロマンチックな心情を捉えた。またこれまで小説を卑しいものと捉えてきた知識人階層が政治・社会問題を題材として小説を書いたことが、小説および文学が人生において正面から取り組む問題とした意義も認められる(中村光夫『日本の近代小説』)。また『経国美談』は凡例にて、正史を元にしながら「人情滑稽を加えて小説体と為す」としているのに対し、ウォルター・スコット『アイヴァンホー』の翻訳である牛山鶴堂『梅蕾余薫』(1887年)自序では「政治ト人情トヲ兼ネ加フルニ」苦心したというように、坪内の『小説神髄』の小説論の影響を受けるようになっていく。
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