武士の名字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:03 UTC 版)
平安時代後期になると律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現する。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する土地(本貫地)(名 - みょう)の地名を名字として名乗り、それを代々継承した。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を名字とする者も現れた。 鎌倉時代になると武士の所領が拡大し、大きな武家になると全国各地に複数の所領を持つようになった。鎌倉時代の武家は分割相続が多かったため、庶子が本家以外の所領を相続すれば、その相続した所領を名字として名乗るようになる。またさらなる土地の開墾によって居住域が増え、新たな開墾地の地名を名字とし、ますます武士が名乗る名字の数は増大していった。ただし、注意すべきは、名字は異なろうとも姓(本姓)は同じということである。 例えば、新田義貞の弟は脇屋義助だが、姓(本姓)で言えばどちらも源姓であり、源義貞、源義助である。新田という名字は、源義家(八幡太郎義家。八幡太郎とは義家の通称)の四男の源義国(足利式部大夫義国。足利は義国の母方の里の地名、式部大夫は役職)の長男の源義重が、新田荘を開墾し、そこを所領とし、藤原忠雅に寄進して荘官に任命されたことから新田荘の荘名を名字にしたことに始まる。義助は兄の義貞が相続した嫡宗家から独立して新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自己の名字とし、脇屋義助と名乗った。ただし、新田氏は源頼朝から門葉として認められなかったため、鎌倉時代には幕府の文書に「源○○」と署名、記載されることはなかった。[要出典] この頃の名字は家名としての性格が弱く、いわゆる北条泰時は江間太郎を称した後、父の相模守就任後は「相模太郎」(相模守の嫡男の意)を称し、任官後はもっぱら官名で呼ばれており、 「相模修理亮泰時」と称することはあっても実際に北条(條)の名字で呼称された事実は無い。北条時宗も同様であり、実際に北条の名字を名乗った北条氏は少数派である。三浦氏も同じ。これを重視する見地からは、当時の「北条」や「三浦」は居住地を表すものに過ぎず家名としての名字ではない、南北朝時代以降嫡子単独相続が主流となり、ほかの兄弟が改称せず配下としてとどまるようになったことで、単独相続を前提とした家産が成立すると、父から嫡男へと家産を継承する永続性を持った「家」が出現することになる。永続する家は個々人から独立した組織体であり、そのような組織体を指し示す呼称として名字が成立した。 そして、室町時代から江戸時代になると、姓(本姓)は、もっぱら朝廷から官位を貰うときなどに使用が限られるようになり、そのような機会を持たない一般の武士は、姓(本姓)を意識することは少なくなった。事実、江戸幕府の編纂した系図集を見ると、旗本クラスでも姓(本姓)不明の家が散見される。一方で、一般の人であっても朝廷に仕えるときは、源平藤橘といった適切な姓(本姓)を名乗るものとされた。また、一部の学者等が趣味的、擬古的に名乗ることもあった。したがって、名字は支配階級の象徴として固定化されたが、姓(本姓)の有無は支配階級の象徴として本質的なものではなかったのである。 公家・武士ともども、名字の下に直接接続するのは通称であり、諱を直接つなげる場合は、姓(本姓)に対してが通常であった。ただし名字と諱を直接つなげることも、皆無ではなかった。下級武士においては、通称のみで諱を持たない者も少なくなかった。
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