武士と農民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:20 UTC 版)
折りしも軍医として新政府軍と行動をともにし、かつイギリス公使ハリー・パークスの調査員でもあったイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが一揆に遭遇しており、一揆による打ちこわしこそ徹底的であったが、統制は取れており、過失によって死者が出ることもあったが例外に属することであると伝えている。 また、19日には旧藩主松平容保・喜徳父子が江戸に護送されることになったが、領民は戦争を引き起こしながら降伏後、切腹もせずに生き延びた父子に対する尊敬の念を失い、あらゆる方面で冷たい無関心(cold indifference)が示されたこと、武士は容保に同情したが、農民は護送される藩主父子に背を向けて、野良仕事を続けていたことを記している。 彼は、たとえ容保やその家臣が恩赦を受けても、支配者として会津に戻ることは不可能であろう、とその手記をしめくくっている。会津若松市およびその近辺において、庶民レベルにまで新政府に対する怨恨の感情が普及するのは、たとえば白虎隊礼讃に代表されるような、もっぱら武士の立場から史実を見る偏見に基づいた郷土史研究が広く行われ、観光資源として利用(戦後会津の観光史学を参照)されるようになってからである。 上述のような歴史的経緯から、猪苗代には松平氏に対する非武士の者からの敬慕の念が薄かった。農民たちは会津藩の支配を批判して小作料の廃止、重い年貢の免除、役人を農民で決める制度などを訴え、会津藩の役人や豪商の家を打ちこわした。
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