びゃっこ‐たい〔ビヤクコ‐〕【白虎隊】
白虎隊
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白虎隊(びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。
- ^ a b c d e f 【時を訪ねて 1868】白虎隊士、北へ(福島県会津若松市)少年らの義「忠君」に利用『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2019年12月1日1-2面
- ^ ゲベール銃 会津物語 八重の物語 えにしの資料館(2020年11月15日閲覧)
- ^ みやぎ会津会 みやぎ会津会特別顧問飯沼一宇氏(飯沼貞吉の直孫より)2020年7月12日閲覧
- ^ 花見朔巳編『男爵山川先生伝』444-445頁
- ^ 『男爵山川先生伝』446-447頁
- ^ a b c 九頭見和夫「『ドイツ記念碑』と日新館の教育 -会津の中のドイツ- (PDF) 」『福島大学教育実践研究紀要』第13号、1988年、pp.25 - 35
- ^ 福家崇洋『日本ファシズム論争 大戦前夜の思想家たち』河出書房新社、2012年、46‐52頁。
- ^ 福島)戊辰戦争150年 会津に思いを寄せる「旧敵」朝日新聞デジタル(2018年1月25日)2020年11月15日閲覧
- ^ 会津藩・白虎隊の学び舎 > 白虎隊について 會津藩校 日新館(2020年11月15日閲覧)
- ^ 白虎隊記念館(2020年11月15日閲覧)
- ^ “ドラマCD「彼岸獅子の入城」(追加情報あり)”. 萌えの桜. 2014年10月8日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』2018年1月23日記事:「明治150年」を強調
白虎隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 17:08 UTC 版)
会津戦争では白虎隊の少年たちが出陣するにあたって、彼らの母親たちは、少年たちがどうか生きのびるようにとの想いを込めて携行食を用意し彼らに持たせた。これは五郎兵衛飴だったと言われている。
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白虎隊
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白虎士中二番隊出陣の慶応4年8月22日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八(18歳)も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より(母方の)祖母との面会を許された。貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。 重き君軽き命と知れや知れ おその媼(おうな)のうへはおもはで 玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもある母は、短冊に一首したためた。 梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)の道 旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。翌23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下で戦ったが敗走。飯盛山に至り、城に戻り戦うか、敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。 彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。その後、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医阿部宗達、吉見雲台(吉見乾海の父)が治療し一命をとり止めた。 その後、新政府軍に捕らわれ、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られる。頼三は彼を長門国(現在の美祢市)へ連れて帰り、東厚保町小杉の庄屋、高見家に預けて庇護したが、会津方にも長州方にも養育していることが知られると不都合が生じるため、飯沼の母に生存のみを知らせ、自らの家族や知人以外には存在を秘匿した。当初飯沼は何度か自殺を思い立ったが、ある日頼三に生き直すよう説き伏せられ、勉学に励むようになったという。
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白虎隊
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「ジャニーズJr.解散グループ (1990年以前)」の記事における「白虎隊」の解説
1975年にジャニーズ事務所が、雑誌『平凡』とのコラボレーションでジャニーズJr.を募集した。その際の合格者は「ジャニーズ・ジュニア第4期生」と呼ばれ、その中から選ばれた3人によって結成されたバンドグループ。1976年8月15日に日本劇場で行われた「ロックン・ロール・カーニバル」にて、『バイバイベイビー』という曲を唄って初お披露目。その後、同年8月24日 - 28日の日本劇場「第56回ウエスタン・カーニバル」で改めて本格的にデビューした。 「ギャングス」の前身グループ。 メンバー 事務所退社大野祥孝(サイドギター) 長谷部徹(ドラム) 岩崎富美雄(ベース)
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