敵兵救助作業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:04 UTC 版)
詳細は「電 (吹雪型駆逐艦)」、「雷 (吹雪型駆逐艦)」、および「工藤俊作 (海軍軍人)」を参照 2月27日-28日第二次夜戦で第五戦隊 (那智、羽黒)は蘭軍巡洋艦デ・ロイテル、ジャワを撃沈した。2番艦の羽黒は1番艦の那智より『溺者あり救助を乞う』との信号があり救助に向かったところ、それは蘭軍巡洋艦の乗組員だった。『全員救助すべし』の下令により羽黒は約20名を収容、士官達は参謀予備室に収容された。 2月28日の朝、二水戦の駆逐艦雪風と時津風は、海上を漂流する連合軍の沈没艦船の生存者を発見し、その救助に当たった。雪風はエレクトラの砲術長やデ・ロイテルの通信科の下士官をふくむ40名ほどを救助した。同日22時、『溺者あり』との信号を受けた二水戦旗艦神通は初風に命じ、デ・ロイテルの乗組員など39名を救助させた。第十六駆逐隊の各艦に収容された連合軍将兵は、主に初風によって救助されたが、捕虜となった生存者を纏めて運ぶ役目は雪風に任せられ、後日、バンジェルマシンで病院船に引き渡された。 同日、第二水雷戦隊・第四水雷戦隊に拘束されたオランダの病院船オプテンノールも前日の戦闘で沈没したデ・ロイテル、ジャワの生存者救助におもむこうとしたが、『生存者は日本海軍によって救助されるはずだ』として拒否された。バウエアン島北方海域に仮泊するよう命じられたが、それを無視してオーストラリアへ向けて航行を開始した。すると水上機母艦千歳の水上偵察機から警告射撃と威嚇爆撃をうける。オプテンノールは移動を諦めた。 3月1日午前2時、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)は哨戒中に軽巡ジャワの生存者を発見、37名が江風に収容された 3月1日昼間の戦闘後、第三艦隊司令長官の高橋伊望中将は、艦隊に海上を漂流中の連合国軍将兵の救助活動を命じ、3隻の駆逐艦が救助にあたった。山風はエクセターの生存者67名を救助した、約100名の捕虜を抱えた第五戦隊は第二艦隊・第三艦隊に指示を仰いだ。 午後2時過ぎ、駆逐艦曙が漂流するフォール卿らを発見したが、砲を向けたのみで去った。天津風はオランダの病院船オプテンノールをバンジェルマシンに護送するため単艦行動中だったが、バウエアン島北西部でエクセターの生存者らしき連合軍将兵漂流者多数を発見、『別に救助船がくる』と英語で知らせ、同時に第二水雷戦隊司令部に救助を依頼すると、その場を去った。この後、天津風はオプテンノールをバンジェルマシンへ連行した。オプテンノールは同地(3月9日以降マカッサル)で捕虜収容船となってしまい、オプテンノールの船長は日本軍に「病院船に捕虜を送り込まないでくれ」と抗議している。 午後10時頃、雷は漂流していたフォール卿らを発見すると、潜水艦による攻撃といった様々な危険を承知で救助作業に入った。漂流するイギリス兵は、重傷者の後にエクセター、エンカウンターの両艦長が上がり、その後雷に殺到して一時パニックに陥ったが、ライフジャケットを付けたイギリス青年士官が号令をかけると整然となった。この青年士官は、独力で上がれない者には、雷が差し出したロープをたぐり寄せて身体に巻きつけ、そして「引け」の合図を送り、多くの者を救助していた。救助時、イギリス兵達がライフジャケット等を着用しているのを見て日本兵は大変驚いた。雷に救助されたイギリス兵達は暖かいもてなしを受けた。艦長伝令の佐々木氏によれば、日本側は貴重な真水や乾パンを彼らに配給したが、イギリス兵たちは必要なだけ取ると日本側へ返却し、佐々木氏を驚かせた。日も暮れ始める頃にはすっかり両軍の兵士達は打ち解け合ってしまい「艦内軍紀を厳守せよ」との指示が出された。 だが、捕虜の扱いは各艦で異なった。那智での捕虜の扱いは冷淡で、副長の市川重中佐は「甲板士官が、救助した敵兵7名の処遇に困り、夜間、海に突き落としたいと言って何度も自分のもとを訪れた。」と証言している。加えて、第五水雷戦隊(バタビア方面西部ジャワ攻略部隊護衛隊)は、先任参謀の由川周吉中佐が「敵兵救助に関する指示は、作戦行動指示に忙殺されて出していない」と記述している。一方、南方作戦全般を指揮した第二艦隊司令部(司令長官近藤信竹中将)は、ジャワ島南方洋上の重巡愛宕艦上にあったが、これも全軍に対し、「敵兵救助」の命令を発した形跡は全く残っていない。高橋中将の第三艦隊は、第五戦隊および第二水雷戦隊に対し、捕虜を駆逐艦にまとめマカッサルに移送するよう下令した。山風は江風達と分離してマカッサルへ向かった。 この点電、雷の2駆逐艦は、イギリス滞在歴があり親英的な感覚を持っていた高橋中将の直属かつ単艦行動中だった幸運が重なり、艦長の決断と個性が遺憾なく発揮された。エンカウンターの将兵を救助した雷駆逐艦長の工藤俊作少佐は、英語で「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私はイギリス海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実におろかである」と挨拶している。「雷」での待遇は良かったが、その後の東南アジアでの捕虜生活は「まあまあ」であったという。雷の乗組員は、日露戦争蔚山沖海戦でロシア海軍装甲巡洋艦リューリクの乗組員を救助した上村彦之丞中将の気分だったと回想している。 雪風の航海士の山崎太喜男少尉は、海軍兵学校時代に英国人教師に英会話を習った経緯から、救助したエレクトラの砲術長のトーマス・スペンサー大尉の訊問を担当した。15時間近く海上を漂流していたスペンサー大尉は雪風で水と食事を与えられ、山崎少尉から着替えと煙草を進められると、故郷スコットランドの思い出など身の上話を語り、その一方で軍事的な質問に対しては黙秘を貫いたが、当時の日本軍に浸透していなかったジュネーブ条約のことは詳しく話した。山崎少尉はスペンサー大尉から「英米ではジュネーブ条約によって捕虜の待遇を保証していて、戦争中でも家族との連絡や捕虜交換による帰国が許される」と教えられ、「生きて虜囚の辱めを受ける前に自決する」という考えが常識だった日本軍との違いに驚かされた。連合軍艦艇の捕虜が雪風から病院船に引き渡される際、スペンサー大尉は山崎少尉から餞別の煙草一箱を贈られると、冗談を交わしながら戦後の再会を誓い合った。 3月2日、潜水艦との戦闘後に海戦海域に戻った艦隊は、再度高橋中将の命令により救助活動を実施した。2回目の救助活動では妙高、足柄他の艦も漂流者を収容している。那智は約50名を救助したという。『望遠鏡で見ると、どの味方僚艦の後甲板も、救助した捕虜が山積みされ、いまにもこぼれ落ちそうであった。』。その後、海上に漂流者多数を残して参謀長命により救助活動は中止された。救助中止は無電によるものと、足柄の石井勝射撃盤員は推測している。 3月3日午前6時半に乗員を涼ませるため浮上していた連合国潜水艦(艦名不詳)へ足柄が高角砲射撃を行い、海に飛び込んだ潜水艦乗員たちを駆逐艦潮が救助した。同日、捕虜100名を乗せた山風はマカッサルに到着した。 3月5日セレベス島マカッサルに入港した艦隊は、捕虜を陸軍捕虜収容所のトラックへ引き渡している。港内で足柄の隣だったオランダの病院船オプテンノールの看護婦たちは甲板上の捕虜たちと手を振り合っていた。
※この「敵兵救助作業」の解説は、「スラバヤ沖海戦」の解説の一部です。
「敵兵救助作業」を含む「スラバヤ沖海戦」の記事については、「スラバヤ沖海戦」の概要を参照ください。
- 敵兵救助作業のページへのリンク