成立年とは? わかりやすく解説

成立年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 10:01 UTC 版)

アルタン・トプチ (著者不明)」の記事における「成立年」の解説

著者不明アルタン・トプチ』がいつ編纂されたかについては、本文記載がないため、種々の説が出されている。 17世紀初頭説…最後文章記されている「リグダン・ハーン即位1604年)」、「ダライ・ラマ4世ラサ到着1603年)」、「マイダリ・ホトクトの来蒙(1604年)」の3つの事件いずれも17世紀初頭であり、それ以降事件記されていないことから、この書はリグダン・ハーン即位して間もない時期編纂されたものとする1620年代から1630年代説…『アルタン・トプチ』に記される明の歴代皇帝記述において、「洪武帝以来天啓帝に至るまで257年在位した。」とあることから、明の建国1368年)から257年後というのは1624年天啓四年)なので、また天啓帝次の皇帝崇禎帝在位1627年 - 1644年)についての記述がないので、この書は天啓帝在位年1621年から1627年までの間に編纂されたものとする。ただし、ここで記されている歴代皇帝在位年数には誤りもあるため、信頼性欠ける。 上記2説よりも後代説…著者不明アルタン・トプチ』の記述がロブサンダンジン『アルタン・トプチ』(17世紀末)より簡略であるため、著者不明アルタン・トプチ』はロブサンダンジン『アルタン・トプチ』を節略したものであると考えられること。またチャハル王家のブルニ親王在位1669年 - 1675年)の名が記されていることから。ただし、ロブサンダンジン『アルタン・トプチ』は著者不明アルタン・トプチ』に大幅な加筆したものであり、ブルニ親王記述後代加筆であるとされることから、支持されていない

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成立年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 15:14 UTC 版)

二年律令」の記事における「成立年」の解説

表題二年律令」の「二年」が指す年については、(1)呂后2年紀元前186年)と(2)高祖2年紀元前205年)という2つの説が唱えられている。 (1)呂后2年説 整理小組など、多く研究者支持する説。根拠以下の通り。 同じ墓から出土した暦譜の紀年が漢の高祖5年紀元前202年)から呂后2年紀元前186年)までである。 具律に「呂宣王」(呂后の父の諡号)とその親族優遇する規程があり、この諡号呂后元年紀元前187年)に初め用いられたものである(2)高祖2年説 張建国のみが唱える説。「二年律令」を、蕭何高祖2年紀元前205年)に作った法令約束」とみる。明らかにそれ以後作られ条文に関しては、その後の改訂よるものとみなす。

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成立年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/22 23:00 UTC 版)

チャガン・テウケ」の記事における「成立年」の解説

モンゴル人民共和国科学研究委員会所蔵写本に 「 『十の功徳を持つ仏法の白い歴史といわれるこれを、最初フビライ・チャクラワルン・セチェン・ハンが編纂したものを、ホトクト・チョクチャスン・ジルケン・ダイチン・セチェン・ホンタイジが預言者となり悟ってスンチュ(Süngčü)という名の町から出してウイグル人のブラナシリ・ウイジュン国師の古い経典合わせて吉兆よく共に結合させて調べ編纂するには…(以下略) 」 とあり、各研究者さまざまな成立年を割り出した。 ジャムツァラーノはオルドス写したテキストをもとに検討しフビライ治世中(1260年 - 1294年)であるという結論至った。 ザガスターは1272年 - 1280年の間に、フビライ命令によって編纂されたとした。 ビラは「フビライ即位した1260年よりも早くなく、パクパ・ラマが亡くなった1280年より遅くない」とした。 しかし、内蒙古社会科学院所蔵本のいくつかに 「 『十の功徳を持つ仏法の白い歴史といわれるこれを、最初フビライ・チャクラワルン・セチェン・ハンが編纂したものを、ホトクタイ・チョクチャスン・ジルケン・ダイチン・セチェン・ホンタイジが預言者となり悟って、スンジュという町から出してウイグルのビラナシリ・ウンチュン国師の古い経典合わせて吉兆よく共に結合させて調べ書いた。či(čai)-sünの初年terigün on編纂するには…(以下略) 」 と、ジャムツァラーノらが参照した写本にはない(太字記した部分があり、これを参照した留金鎖は「či(čai)-sün」を元朝年号至順」に比定し、至順元年1330年)に『チャガン・テウケ』が編纂されたとした。 井上治は「16世紀末にチベット仏教モンゴルの地に導こうとした中心人物であるセツェン・ホンタイジが、モンゴル民族仏教帰依歴史的必然性根拠を示すことを目的として、16世紀末に書いたフビライ史である」とした。 森川哲雄は「フビライ編纂した」「至順元年編纂した」という文章信用できず、16世紀末にホトクト・セチェン・ホンタイジの手によって編纂されたものとしている。

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成立年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/02 06:56 UTC 版)

シラ・トージ」の記事における「成立年」の解説

シラ・トージ』にはその編纂年代示されていないため、また『シラ・トージ』より前に成立したはずの『蒙古源流』1662年)に『シラ・トージという名の書が引用されていること、それにもかかわらずシラ・トージ』には17世紀末から18世紀初頭人物記されていることなどから、正確な編纂年がわからずにいる。 ジャムツァラーノは『蒙古源流』に『シラ・トージ』を利用した記されていることから、もともとこの年代記は17世紀前半編纂され、段階的に加筆されていった見解した。この見解その後多く研究者によって踏襲されている。しかし、森川哲雄は『シラ・トージ』に『アサラクチ史』(1677年)を利用した形跡があるとし、『蒙古源流』より前に編纂されておらず、『アサラクチ史』より後に編纂されたとしている。

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成立年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/07 07:19 UTC 版)

アルタン・トプチ (ロブサンダンジン)」の記事における「成立年」の解説

このロ氏『アルタン・トプチ』は初期モンゴル年代記同様に編纂年代記していない。そのため編纂年代についてはいろいろな見解出されている。 1649年から1736年の間説…モステールト(Mostaert)はロ氏『アルタン・トプチ』にオルドスが六旗からなる記されていることに注目しオルドスが六旗に編成されたのは1649年で、七旗に編成されたのが1736年のことであるから編纂された年代その間であると考えた1952年)。 1651年から1655年の間説…ハイッシヒ(Heissig)はロ氏『アルタン・トプチ』にチャハル王家のブルニ親王1651年生まれ)については記しているが、彼が1674年起こした清朝対す反乱については記していないこと、ハラチン王家最新王公としてブラの名を記しているが、その子については言及していないこと、しかし1735年編纂された『蒙古世系譜』にはダライロミという子がいたと記されていること、そのうちダライ1655年生まれていることなどから、編纂年代1651年から1655年の間であると結論した1959年)。 17世紀終わりから18世紀初め説…ビラ(Бира)はロブサンダンジンが著した五台山志』は1721年編纂されたものであること、また著者はこの時代起きた事件のすべてを知っていたわけではないし、また知って何らかの理由書き得なかったことなどを根拠に、ロ氏『アルタン・トプチ』は17世紀のほぼ終わりから18世紀初めに編纂されたと述べている(1978年)。 1677年以降説…石濱裕美子がロ氏『アルタン・トプチ』が1677年編纂された『アサラクチ史』を利用していることを論証したため(1986年)、『アサラクチ史編纂1677年以降であるとする。 現在では17世紀末頃という見解多く研究者によって受け入れられている。

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成立年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 07:43 UTC 版)

元朝秘史」の記事における「成立年」の解説

元朝秘史の成立年は長年にわたる論争があり、決着見ていない。 成立年の根拠となるのは、続集末尾の第282節にある記述、「大クリルタイ開かれた鼠の年の7月に、ケルレン川のコデエ・アラルという場所にオルド幕営)があったときに書き終えた大意)」である。従って、干支が(子年)である年に成立したことはほぼ疑いなく受け入れられているが、これがどの年にあたるかについてが問題となる。 古くから研究者によって提唱されてきた代表的な説は、1228年1240年1252年1264年1276年などがある。 1228年説は、チンギス・カン亡くなった翌年後継者を選ぶために開かれたクリルタイの席で書かれたとするのである。しかし、続集明らかにオゴデイ治世期の記述を含む以上、第282節が続集末尾置かれていることと矛盾するため、支持者少ない。ただ、第282節が本来は本編第10巻末尾または続集チンギス・カン死に関す記述直後にあったものが続集オゴデイ治世期の追補時に所を移し変えられたと考え1228年大半の成立年とみなす小澤重男らの説もある。 1240年オゴデイの治世末期にあたり12巻本を初め外国語翻訳した那珂通世をはじめ、最も多く研究者支持されている説で、モンゴル国でもこの説が有力である。ただ、この年にコデエ・アラルでクリルタイ開かれた史実見当たらないことが、この説の重大な弱点として残される1252年説は、元朝秘史中に帝位オゴデイ家からトルイ家に移ることを暗示した箇所があることを根拠に、前年からコデエ・アラルでトルイ家モンケ推戴するクリルタイ開かれていた1252年を成立年とした。しかし、内容をより仔細に検討すると、さらに下って1258年高麗遠征を示すと思われる記述1260年以降クビライ治世改名され地名など見られる。そこで、1264年説や1276年説が提唱されているが、これらには裏づけとなるクリルタイ開催史実がないことが弱点となる。 この他に、子年にコデエ・アラルで開かれたクリルタイもう一回あり、1324年泰定帝即位時ののである。これはチンギス・カン在世当時からあまりにも時代下りすぎるためほとんど考慮されてこなかったが、1980年代になって岡田英弘この年を成立年として提唱した。すなわち、例え13世紀以降カアンハーン)の外戚として繁栄したコンギラト部族のことを「代々カアンハーン)の家と通婚して皇后出してきた」と言っている箇所があり、13世紀以降人々考え方混入していると判断できるという。岡田によれば元朝秘史チンギス・カン廟の祭祀晋王称号を持つ王族によって始められ1292年から後に祭祀のための縁起として口承され頌詩であり、1324年筆写されたのだという。

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