成立年
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「アルタン・トプチ (著者不明)」の記事における「成立年」の解説
著者不明『アルタン・トプチ』がいつ編纂されたかについては、本文に記載がないため、種々の説が出されている。 17世紀初頭説…最後の文章に記されている「リグダン・ハーンの即位(1604年)」、「ダライ・ラマ4世のラサ到着(1603年)」、「マイダリ・ホトクトの来蒙(1604年)」の3つの事件がいずれも17世紀初頭であり、それ以降の事件が記されていないことから、この書はリグダン・ハーンが即位して間もない時期に編纂されたものとする。 1620年代から1630年代説…『アルタン・トプチ』に記される明の歴代皇帝の記述において、「洪武帝以来天啓帝に至るまで257年在位した。」とあることから、明の建国(1368年)から257年後というのは1624年(天啓四年)なので、また天啓帝の次の皇帝崇禎帝(在位:1627年 - 1644年)についての記述がないので、この書は天啓帝の在位年間1621年から1627年までの間に編纂されたものとする。ただし、ここで記されている歴代皇帝の在位年数には誤りもあるため、信頼性に欠ける。 上記2説よりも後代説…著者不明『アルタン・トプチ』の記述がロブサンダンジン『アルタン・トプチ』(17世紀末)より簡略であるため、著者不明『アルタン・トプチ』はロブサンダンジン『アルタン・トプチ』を節略したものであると考えられること。またチャハル王家のブルニ親王(在位:1669年 - 1675年)の名が記されていることから。ただし、ロブサンダンジン『アルタン・トプチ』は著者不明『アルタン・トプチ』に大幅な加筆をしたものであり、ブルニ親王の記述も後代の加筆であるとされることから、支持されていない。
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成立年
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表題「二年律令」の「二年」が指す年については、(1)呂后2年(紀元前186年)と(2)高祖2年(紀元前205年)という2つの説が唱えられている。 (1)呂后2年説 整理小組など、多くの研究者が支持する説。根拠は以下の通り。 同じ墓から出土した暦譜の紀年が漢の高祖5年(紀元前202年)から呂后2年(紀元前186年)までである。 具律に「呂宣王」(呂后の父の諡号)とその親族を優遇する規程があり、この諡号が呂后元年(紀元前187年)に初めて用いられたものである。 (2)高祖2年説 張建国のみが唱える説。「二年律令」を、蕭何が高祖2年(紀元前205年)に作った「法令約束」とみる。明らかにそれ以後に作られた条文に関しては、その後の改訂によるものとみなす。
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成立年
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モンゴル人民共和国科学研究委員会所蔵の写本に 「 『十の功徳を持つ仏法の白い歴史』といわれるこれを、最初フビライ・チャクラワルン・セチェン・ハンが編纂したものを、ホトクト・チョクチャスン・ジルケン・ダイチン・セチェン・ホンタイジが預言者となり悟って、スンチュ(Süngčü)という名の町から出して、ウイグル人のブラナシリ・ウイジュン国師の古い経典と合わせて、吉兆よく共に結合させて調べ編纂するには…(以下略) 」 とあり、各研究者はさまざまな成立年を割り出した。 ジャムツァラーノはオルドスで写したテキストをもとに検討し、フビライの治世中(1260年 - 1294年)であるという結論に至った。 ザガスターは1272年 - 1280年の間に、フビライの命令によって編纂されたとした。 ビラは「フビライが即位した1260年よりも早くなく、パクパ・ラマが亡くなった1280年より遅くない」とした。 しかし、内蒙古社会科学院所蔵本のいくつかに 「 『十の功徳を持つ仏法の白い歴史』といわれるこれを、最初フビライ・チャクラワルン・セチェン・ハンが編纂したものを、ホトクタイ・チョクチャスン・ジルケン・ダイチン・セチェン・ホンタイジが預言者となり悟って、スンジュという町から出して、ウイグルのビラナシリ・ウンチュン国師の古い経典と合わせて、吉兆よく共に結合させて調べ書いた。či(čai)-sünの初年terigün onに編纂するには…(以下略) 」 と、ジャムツァラーノらが参照した写本にはない(太字で記した)部分があり、これを参照した留金鎖は「či(čai)-sün」を元朝の年号「至順」に比定し、至順元年(1330年)に『チャガン・テウケ』が編纂されたとした。 井上治は「16世紀末にチベット仏教をモンゴルの地に導こうとした中心人物であるセツェン・ホンタイジが、モンゴル民族の仏教帰依の歴史的必然性と根拠を示すことを目的として、16世紀末に書いたフビライ史である」とした。 森川哲雄は「フビライが編纂した」「至順元年に編纂した」という文章は信用できず、16世紀末にホトクト・セチェン・ホンタイジの手によって編纂されたものとしている。
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成立年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/02 06:56 UTC 版)
『シラ・トージ』にはその編纂年代が示されていないため、また『シラ・トージ』より前に成立したはずの『蒙古源流』(1662年)に『シラ・トージ』という名の書が引用されていること、それにもかかわらず『シラ・トージ』には17世紀末から18世紀初頭の人物が記されていることなどから、正確な編纂年がわからずにいる。 ジャムツァラーノは『蒙古源流』に『シラ・トージ』を利用したと記されていることから、もともとこの年代記は17世紀前半に編纂され、段階的に加筆されていったと見解した。この見解はその後多くの研究者によって踏襲されている。しかし、森川哲雄は『シラ・トージ』に『アサラクチ史』(1677年)を利用した形跡があるとし、『蒙古源流』より前には編纂されておらず、『アサラクチ史』より後に編纂されたとしている。
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成立年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/07 07:19 UTC 版)
「アルタン・トプチ (ロブサンダンジン)」の記事における「成立年」の解説
このロ氏『アルタン・トプチ』は初期のモンゴル年代記と同様に編纂年代を記していない。そのため編纂年代についてはいろいろな見解が出されている。 1649年から1736年の間説…モステールト(Mostaert)はロ氏『アルタン・トプチ』にオルドスが六旗からなると記されていることに注目し、オルドスが六旗に編成されたのは1649年で、七旗に編成されたのが1736年のことであるから、編纂された年代はその間であると考えた(1952年)。 1651年から1655年の間説…ハイッシヒ(Heissig)はロ氏『アルタン・トプチ』にチャハル王家のブルニ親王(1651年生まれ)については記しているが、彼が1674年に起こした清朝に対する反乱については記していないこと、ハラチン王家の最新王公としてブラの名を記しているが、その子については言及していないこと、しかし1735年に編纂された『蒙古世系譜』にはダライとロミという子がいたと記されていること、そのうちダライは1655年に生まれていることなどから、編纂年代は1651年から1655年の間であると結論した(1959年)。 17世紀の終わりから18世紀の初め説…ビラ(Бира)はロブサンダンジンが著した『五台山志』は1721年に編纂されたものであること、また著者はこの時代に起きた事件のすべてを知っていたわけではないし、また知っても何らかの理由で書き得なかったことなどを根拠に、ロ氏『アルタン・トプチ』は17世紀のほぼ終わりから18世紀の初めに編纂されたと述べている(1978年)。 1677年以降説…石濱裕美子がロ氏『アルタン・トプチ』が1677年に編纂された『アサラクチ史』を利用していることを論証したため(1986年)、『アサラクチ史』編纂(1677年)以降であるとする。 現在では17世紀末頃という見解が多くの研究者によって受け入れられている。
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成立年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 07:43 UTC 版)
元朝秘史の成立年は長年にわたる論争があり、決着を見ていない。 成立年の根拠となるのは、続集最末尾の第282節にある記述、「大クリルタイの開かれた鼠の年の7月に、ケルレン川のコデエ・アラルという場所にオルド(幕営)があったときに書き終えた(大意)」である。従って、干支が(子年)である年に成立したことはほぼ疑いなく受け入れられているが、これがどの年にあたるかについてが問題となる。 古くから研究者によって提唱されてきた代表的な説は、1228年、1240年、1252年、1264年、1276年などがある。 1228年説は、チンギス・カンが亡くなった翌年に後継者を選ぶために開かれたクリルタイの席で書かれたとするものである。しかし、続集が明らかにオゴデイ治世期の記述を含む以上、第282節が続集の末尾に置かれていることと矛盾するため、支持者は少ない。ただ、第282節が本来は本編第10巻の末尾または続集のチンギス・カンの死に関する記述の直後にあったものが続集のオゴデイ治世期の追補時に場所を移し変えられたと考え、1228年を大半の成立年とみなす小澤重男らの説もある。 1240年はオゴデイの治世末期にあたり、12巻本を初めて外国語に翻訳した那珂通世をはじめ、最も多くの研究者に支持されている説で、モンゴル国でもこの説が有力である。ただ、この年にコデエ・アラルでクリルタイが開かれた史実は見当たらないことが、この説の重大な弱点として残される。 1252年説は、元朝秘史の中に、帝位がオゴデイ家からトルイ家に移ることを暗示した箇所があることを根拠に、前年からコデエ・アラルでトルイ家のモンケを推戴するクリルタイが開かれていた1252年を成立年とした。しかし、内容をより仔細に検討すると、さらに下って1258年の高麗遠征を示すと思われる記述、1260年以降のクビライ治世に改名された地名などが見られる。そこで、1264年説や1276年説が提唱されているが、これらには裏づけとなるクリルタイ開催の史実がないことが弱点となる。 この他に、子年にコデエ・アラルで開かれたクリルタイはもう一回あり、1324年の泰定帝即位時のものである。これはチンギス・カン在世当時からあまりにも時代が下りすぎるためほとんど考慮されてこなかったが、1980年代になって岡田英弘がこの年を成立年として提唱した。すなわち、例えば13世紀末以降にカアン(ハーン)の外戚として繁栄したコンギラト部族のことを「代々カアン(ハーン)の家と通婚して皇后を出してきた」と言っている箇所があり、13世紀末以降の人々の考え方が混入していると判断できるという。岡田によれば、元朝秘史はチンギス・カン廟の祭祀が晋王の称号を持つ王族によって始められた1292年から後に祭祀のための縁起として口承された頌詩であり、1324年に筆写されたのだという。
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