国家保安本部とは? わかりやすく解説

国家保安本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 13:31 UTC 版)

国家保安本部(こっかほあんほんぶ、: Reichssicherheitshauptamt der SS、略号:RSHA)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)組織の中の12ある本部(Hauptamt)の一つで、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔である。英語では、“Reich Security Main Office”と訳されている。


  1. ^ なお、ハイドリヒは生前にRSHA長官とは名乗らず、先述の通り保安警察および親衛隊情報部の最高責任者(「保安警察及び親衛隊情報部長官」とも)と名乗った。これは、党・国家双方の支配を回避し、ヒトラー個人に直属するためである。


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国家保安本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 15:04 UTC 版)

SD (ナチス)」の記事における「国家保安本部」の解説

さらに1939年9月にはハイドリヒ長官とする国家保安本部(RSHA)が誕生し保安警察ジポ)(1936年ゲシュタポ刑事警察クリポ)と統合されてこの組織一部となっていた。)とSDはともにこの下に組み込まれることとなったゲシュタポは国家保安本部第四局(反体制取締)となり、一方SD外国諜報国内諜報分けられそれぞれ第三局(国内保安局、SD-Inland)と第六局(海外保安局、Ausland-SD)となった第三局はオットー・オーレンドルフ第六局はヴァルター・シェレンベルクによって指揮された。 第三局のSD国内諜報)は、ドイツ社会の状態を率直に分析し党指導部報告することができた。特にスターリングラード攻防戦以後ドイツ戦局悪化してくると、敗北主義ではないかナチ党幹部から疑われかねない報告書さえも提出するようになったという。のちにニュルンベルク裁判局長オーレンドルフは「SD客観的な事実報告求められたため、ナチス批判的な情報を党上層部伝えられライヒ内の唯一の批判組織”だったのではないか」などと述べている。 一方第六局のSD海外諜報)は、第二次世界大戦中ヴィルヘルム・カナリス提督国防軍情報部アプヴェーア)と敵国への諜報活動主導権めぐって激しく争った。しかし最終的に勝利したのはSDであった1944年2月カナリスヒトラー信任失いそもそもカナリス自身が、ヒトラー面従腹背態度取り、またクーデター計画荷担していた)、解任されたのを機にアブヴェールは国家保安本部第六局の配下組み入れられたのであった。なお局長のシェレンベルク戦争後期ヒムラーとともにヒトラー断らず独断和平工作行おうとしている。 ゲシュタポ内にもSD隊員含まれており、1939年開戦時には20000名のスタッフ3000人がSD隊員であったニュルンベルク裁判証言したヘプナーSDのうち90%は親衛隊出身者ではないと証言したが、188名のサンプル115名が親衛隊出身者であると反証された。

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国家保安本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:20 UTC 版)

親衛隊 (ナチス)」の記事における「国家保安本部」の解説

国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家警察機関である保安警察ゲシュタポ刑事警察)と親衛隊SD本部統合する形で1939年9月誕生した親衛隊本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地政治警察のすべてを統括する親衛隊最重要本部である。長官ははじめラインハルト・ハイドリヒSS大将務めていたが、1942年6月ハイドリヒ暗殺された後にはハインリヒ・ヒムラー長官兼務して直接指揮を執った。1943年1月からドイツ敗戦までエルンスト・カルテンブルンナーSS大将長官就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。 I局、人事局 (Personal)局長: ブルーノ・シュトレッケンバッハSS少将エーリヒ・エーアリンガーSS少将 II局、編制総務法務局 (Organisation, Verwaltung und Recht)局長: ハンス・ノッケマンSS大佐 (Hans Nockemann) III局、国内保安局 (SD-Inland)局長: オットー・オーレンドルフSS中将 IV局、秘密国家警察局 (Geheimes Staatspolizeiamt、略称Gestapo)局長: ハインリヒ・ミュラーSS中将IVB4課 (ユダヤ人課)課長: アドルフ・アイヒマンSS中佐 V局、刑事警察局 (Reichskriminalpolizeiamt、略称KriPo)局長: アルトゥール・ネーベSS中将フリードリヒ・パンツィンガーSS上級大佐 VI局、海外保安局 (SD-Ausland)局長: ハインツ・ヨストSS少将ヴァルター・シェレンベルクSS少将アプヴェーアドイツ国防軍情報部。「ゾルフ夫人お茶会」(Frau Solf Tea Party)が原因1944年2月、国家保安本部第6局傘下となる) VII局、世界観調査分析局 (Weltanschauliche Forschung und Auswertung)局長: フランツ・ジックスSS少将 また国家保安本部は戦時中ドイツ占領地各地に「保安警察及びSD司令官」を設置していた。ハインリヒ・ヒムラー設置した親衛隊及び警察高級指導者」に対抗したものであった多くアインザッツグルッペン指揮官兼務となっていた。

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国家保安本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 01:28 UTC 版)

フリードリヒ・ズール」の記事における「国家保安本部」の解説

1940年3月ズールはパウル・ミューリウス(ドイツ語版SS少佐後任として国家保安本部第II局A3課の課長就任した1940年7月19日作成され彼の履歴書によればヴェルナー・ベスト更迭され1940年5月末頃から第II局長代行務めていたという。 1941年7月から1942年秋、アドルフ・アイヒマン課長務めていた第IVB4課(ユダヤ人問題担当)に部門長(Sachgebietsleiter)として務める。この職にある間、ズール東部占領地域省ドイツ語版)(ローゼンベルク事務所ドイツ語版))で1942年1月29日開かれた東部占領地域におけるユダヤ人定義の規約に関する会議参加している。この会議1942年1月20日開かれたヴァンゼー会議直後行われ、「本人ユダヤ教徒であるか、少なくとも片方の親がユダヤ教徒である者はユダヤ人見なす」という旨が決定された。さらに東部占領地域省ユダヤ人問題担当局長エアハルト・ヴェッツェル(ドイツ語版)の提案により、混血者も排除対象とされた。 1942年10月ズールRSHAにて開かれた最終的解決関連会議参加するその後、妻グレーテル・ズール(Gretel Suhr)との話し合い経てB4課の仕事から手を引くが、これに対す懲罰として1942年11月からロシア戦線派遣されることになる。

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国家保安本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)

アンリ・フネ」の記事における「国家保安本部」の解説

5月1日午後6時フランスSS突撃大隊ヴィルヘルム通りとプリンツ=アルブレヒト通り(Prinz-Albrecht-Straße、現ニーダーキルヒナー通り (Niederkirchnerstraße))の角にある国家保安本部 (RSHA) の周辺移動した。国家保安本部の建物自体は砲爆撃廃墟化していたが、その地下室待避壕機関銃陣地として十分に機能した5月1日から2日にかけての夜、フネは国家保安本部の地下室休息取ったその場にあった持ち主不明のユロイヒター(Julleuchter:SS隊員の名誉アイテム1つであるランタン)に火を灯し、フネ生き残っている戦友たちに対す鉄十字章授与式執り行ったこれまでの1週間フランスSS突撃大隊将兵のほとんどが斃れており、今や生存者数十名(わずか20名、もしくは50名)のみであった

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