国家保安本部
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国家保安本部(こっかほあんほんぶ、独: Reichssicherheitshauptamt der SS、略号:RSHA)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)組織の中の12ある本部(Hauptamt)の一つで、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔である。英語では、“Reich Security Main Office”と訳されている。
- ^ なお、ハイドリヒは生前にRSHA長官とは名乗らず、先述の通り保安警察および親衛隊情報部の最高責任者(「保安警察及び親衛隊情報部長官」とも)と名乗った。これは、党・国家双方の支配を回避し、ヒトラー個人に直属するためである。
- 1 国家保安本部とは
- 2 国家保安本部の概要
- 3 概要
- 4 文献
国家保安本部
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さらに1939年9月にはハイドリヒを長官とする国家保安本部(RSHA)が誕生し、保安警察(ジポ)(1936年にゲシュタポは刑事警察(クリポ)と統合されてこの組織の一部となっていた。)とSDはともにこの下に組み込まれることとなった。ゲシュタポは国家保安本部第四局(反体制取締)となり、一方SDは外国諜報と国内諜報に分けられ、それぞれ第三局(国内保安局、SD-Inland)と第六局(海外保安局、Ausland-SD)となった。第三局はオットー・オーレンドルフ、第六局はヴァルター・シェレンベルクによって指揮された。 第三局のSD(国内諜報)は、ドイツ社会の状態を率直に分析し、党指導部に報告することができた。特にスターリングラード攻防戦以後ドイツの戦局が悪化してくると、敗北主義ではないかとナチ党幹部から疑われかねない報告書さえも提出するようになったという。のちにニュルンベルク裁判で局長のオーレンドルフは「SDは客観的な事実の報告を求められたため、ナチスに批判的な情報を党上層部に伝えられたライヒ内の唯一の“批判組織”だったのではないか」などと述べている。 一方第六局のSD(海外諜報)は、第二次世界大戦中、ヴィルヘルム・カナリス提督の国防軍情報部(アプヴェーア)と敵国への諜報活動の主導権をめぐって激しく争った。しかし最終的に勝利したのはSDであった。1944年2月にカナリスがヒトラーの信任を失い(そもそもカナリス自身が、ヒトラーに面従腹背の態度を取り、またクーデター計画に荷担していた)、解任されたのを機にアブヴェールは国家保安本部第六局の配下に組み入れられたのであった。なお局長のシェレンベルクは戦争後期にヒムラーとともにヒトラーに断らずに独断で和平工作を行おうとしている。 ゲシュタポ内にもSD隊員は含まれており、1939年の開戦時には20000名のスタッフ中3000人がSD隊員であった。ニュルンベルク裁判で証言したヘプナーはSDのうち90%は親衛隊出身者ではないと証言したが、188名のサンプル中115名が親衛隊出身者であると反証された。
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国家保安本部
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国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である保安警察(ゲシュタポと刑事警察)と親衛隊のSD本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部である。長官ははじめラインハルト・ハイドリヒSS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後にはハインリヒ・ヒムラーが長官を兼務して直接の指揮を執った。1943年1月からドイツの敗戦までエルンスト・カルテンブルンナーSS大将が長官に就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。 I局、人事局 (Personal)局長: ブルーノ・シュトレッケンバッハSS少将、エーリヒ・エーアリンガーSS少将 II局、編制・総務・法務局 (Organisation, Verwaltung und Recht)局長: ハンス・ノッケマンSS大佐 (Hans Nockemann) III局、国内保安局 (SD-Inland)局長: オットー・オーレンドルフSS中将 IV局、秘密国家警察局 (Geheimes Staatspolizeiamt、略称Gestapo)局長: ハインリヒ・ミュラーSS中将IVB4課 (ユダヤ人課)課長: アドルフ・アイヒマンSS中佐 V局、刑事警察局 (Reichskriminalpolizeiamt、略称KriPo)局長: アルトゥール・ネーベSS中将、フリードリヒ・パンツィンガーSS上級大佐 VI局、海外保安局 (SD-Ausland)局長: ハインツ・ヨストSS少将、ヴァルター・シェレンベルクSS少将アプヴェーア(ドイツ国防軍の情報部。「ゾルフ夫人のお茶会」(Frau Solf Tea Party)が原因で1944年2月、国家保安本部第6局傘下となる) VII局、世界観調査・分析局 (Weltanschauliche Forschung und Auswertung)局長: フランツ・ジックスSS少将 また国家保安本部は戦時中にドイツ占領地各地に「保安警察及びSD司令官」を設置していた。ハインリヒ・ヒムラーの設置した「親衛隊及び警察高級指導者」に対抗したものであった。多くはアインザッツグルッペンの指揮官と兼務となっていた。
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国家保安本部
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「フリードリヒ・ズール」の記事における「国家保安本部」の解説
1940年3月、ズールはパウル・ミューリウス(ドイツ語版)SS少佐の後任として国家保安本部第II局A3課の課長に就任した。1940年7月19日に作成された彼の履歴書によれば、ヴェルナー・ベストが更迭された1940年5月末頃から第II局局長代行も務めていたという。 1941年7月から1942年秋、アドルフ・アイヒマンが課長を務めていた第IV局B4課(ユダヤ人問題担当)に部門長(Sachgebietsleiter)として務める。この職にある間、ズールは東部占領地域省(ドイツ語版)(ローゼンベルク事務所(ドイツ語版))で1942年1月29日に開かれた「東部占領地域におけるユダヤ人定義の規約」に関する会議に参加している。この会議は1942年1月20日に開かれたヴァンゼー会議の直後に行われ、「本人がユダヤ教徒であるか、少なくとも片方の親がユダヤ教徒である者はユダヤ人と見なす」という旨が決定された。さらに東部占領地域省ユダヤ人問題担当局長エアハルト・ヴェッツェル(ドイツ語版)の提案により、混血者も排除の対象とされた。 1942年10月、ズールはRSHAにて開かれた「最終的解決」関連の会議に参加する。 その後、妻グレーテル・ズール(Gretel Suhr)との話し合いを経てB4課の仕事から手を引くが、これに対する懲罰として1942年11月からロシア戦線に派遣されることになる。
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国家保安本部
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5月1日午後6時、フランスSS突撃大隊はヴィルヘルム通りとプリンツ=アルブレヒト通り(Prinz-Albrecht-Straße、現ニーダーキルヒナー通り (Niederkirchnerstraße))の角にある国家保安本部 (RSHA) の周辺に移動した。国家保安本部の建物自体は砲爆撃で廃墟と化していたが、その地下室は待避壕や機関銃陣地として十分に機能した。 5月1日から2日にかけての夜、フネは国家保安本部の地下室で休息を取った。その場にあった持ち主不明のユロイヒター(Julleuchter:SS隊員の名誉アイテムの1つであるランタン)に火を灯し、フネは生き残っている戦友たちに対する鉄十字章授与式を執り行った。これまでの1週間にフランスSS突撃大隊の将兵のほとんどが斃れており、今や生存者は数十名(わずか20名、もしくは約50名)のみであった。
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