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アンリ・フネ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/19 05:03 UTC 版)

アンリ=ジョゼフ・フネHenri-Joseph Fenet, 1919年6月11日 - 2002年9月14日)は、第二次世界大戦中のフランス軍人ナチス・ドイツ武装親衛隊フランス人義勇兵騎士鉄十字章受章者。

当初は1940年のフランスの戦いでドイツ軍と交戦したフランス陸軍第3植民地歩兵師団(3e DIC)の中尉であったが、独ソ戦後期の1943年10月、武装親衛隊に志願入隊。1944年8月のガリツィアの戦いでは第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊長としてソビエト赤軍と交戦し、戦功によって二級鉄十字章を受章した。

第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(フランス第1)(33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne"(französische Nr. 1))では第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊長に就任し、1945年2月~3月のポメラニア戦線に従軍。3月のポメラニア戦線撤退時には「シャルルマーニュ」師団最良の部隊で構成された行進連隊第I大隊を指揮し、大隊をソビエト赤軍の包囲網からほぼ無傷で脱出させた功績によって一級鉄十字章を受章した。

独ソ戦の最終局面である1945年4月末、「シャルルマーニュ」師団の中で戦闘継続を希望した生存者約300名で構成されたフランスSS突撃大隊(Französische SS-Sturmbataillon)を率いてベルリン市街戦で奮戦し、1945年4月29日、第三帝国最後の騎士鉄十字章受章者の1人となった。最終階級はSS義勇大尉(SS-Frw. Hauptsturmführer)[1]


  1. ^ ジルベール・ドラットルSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Gilbert Delattre):武装親衛隊フランス人義勇兵部隊初の戦死者
    1924年5月31日フランス共和国(にある多数の同じ地名のうち、いずれかの)サン=アマン(Saint-Amand)生まれ。
    武装親衛隊に入隊した後はゼンハイム親衛隊訓練施設で訓練を受け、当初は突撃旅団の第2中隊、後に第3中隊第1小隊に勤務した。(Robert Forbesの著書p79の日付では8月9日の「翌日」とされているが)1944年8月9日、ソビエト赤軍狙撃兵に撃たれて死亡し、ガリツィアの戦い(武装親衛隊フランス人義勇兵部隊の初陣)で最初に戦死したフランス人義勇兵となった(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Gilbert DELATTRE"の項目を参照)。満20歳没。

  2. ^ ロベール・ランベールSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Robert Lambert):第8フランスSS義勇突撃旅団第3中隊小隊長(後に第2中隊長代行)
    1918年2月10日フランス共和国生まれ。マルセル・ビュカール(Marcel Bucard)率いる「フランス党」(Parti Franciste)の支持者。フランス軍時代にはモロッコスィパーヒー連隊に士官候補生として勤務していた。1943年に武装親衛隊に入隊。
    (フネと同じく)1944年1月10日から3月4日までバート・テルツSS士官学校に在籍してフランス人将校用特別課程第1期を履修し、3月10日にSS義勇少尉に任官。
    1944年8月22日、第8フランスSS義勇突撃旅団第2中隊長代行を務めていた時の戦闘で迫撃砲弾の破片が腹部に命中して戦死。その後、一級鉄十字章を追贈された(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 1: officiers"(lulu, 2011)、"Robert LAMBERT"の項目を参照)。満26歳没。

  3. ^ シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Charles Laschett):第8フランスSS義勇突撃旅団第3中隊第4小隊長
    1920年3月2日フランス共和国の首都パリParis)生まれ。学生時代に政治学を専攻し、1943年に武装親衛隊に入隊したフランス人義勇兵。(フネと同じく)1944年1月10日から3月4日までバート・テルツSS士官学校でフランス人将校用特別課程第1期を履修し、3月10日にSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. Standarten-Oberjunker)となった。
    1944年8月のガリツィアの戦いには突撃旅団第3中隊の小隊長として参戦。8月21日、ポレビ村(Poreby)(推定)で繰り広げられたソビエト赤軍との激戦の末に弾薬を使い果し、降伏を余儀なくされた。
    1945年の第1週、シャルル・ラシェはソビエト連邦タンボフ収容所衰弱死した(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Charles LASCHETT"の項目を参照)。満24歳没。

  4. ^ イヴォン・プルネンネックSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Yvon Prunennec):「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の分隊長
    1922年フランス共和国ブルターニュ生まれ(Robert Forbesの著書での偽名表記は"Yvon Trémel")。
    1940年6月のフランスの戦いの後、ドイツに降伏したフランスからイギリス本土に渡ろうとしたが、渡英の試みは失敗。その後は前線での戦闘を熱望していたが、ドイツ国防軍指揮下の反共フランス義勇軍団に入隊する気は無く、1944年2月22日、武装親衛隊に志願入隊した(なお、彼の家族は熱烈な反ドイツ的一家であったため、プルネンネックは武装親衛隊への入隊を決意したことを家族から強く非難された)。
    武装親衛隊入隊後はゼンハイム親衛隊訓練施設で訓練を受け、1944年6月1日、フランスSS義勇突撃旅団(後の第8フランスSS義勇突撃旅団)第1中隊に配属。8月のガリツィアの戦いに参加していたかどうかは不明であるが、10月から12月まではチェコのノイクラウで下士官候補生教育を受けていた。
    1945年2月下旬のポメラニア戦線には「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の分隊長として従軍したが、2月24日、ハインリスヴァルデの戦いで重傷を負って後送された。
    イヴォン・プルネンネックは大戦を生き延び、2006年(84歳)の時点でも健在であった(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Yvon PRUNENNEC"の項目を参照)。その後の消息は不明。

  5. ^ ギイ・クーニルSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Guy Counil):「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第3中隊長
    1924年4月2日フランス共和国ソーヌ=エ=ロワール県キュ=レ=ロシュ(Culles-les-Roches)生まれ。
    当初は民間の学生であったが、1944年初旬に武装親衛隊に志願入隊し、編制中のフランス人義勇兵旅団(後の第8フランスSS義勇突撃旅団)に配属。1944年5月1日から9月9日まではキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校に在籍しており(8月のガリツィアの戦いには不参加)、卒業後の9月9日にSS義勇連隊付上級士官候補生に任官し、11月9日にSS義勇少尉に昇進した。
    「シャルルマーニュ」師団では第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊の第3中隊長を務め、1945年2月下旬のポメラニア戦線に従軍。ハインリヒスヴァルデに進軍する際は第I大隊の先鋒を務めた。
    1945年2月24日、ハインリヒスヴァルデの戦いで村の墓地へ進撃していた時、頭部に銃弾が命中して戦死。「シャルルマーニュ」師団将兵の中には物資不足が原因でヘルメットさえ装備できなかった者が少なからずいたが、クーニルSS義勇少尉もそのうちの1人であった(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume1: officiers""Guy COUNIL"の項目を参照)。満20歳没。

  6. ^ マックス・キケンポワSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Max Quiquempoix):クーニルSS義勇少尉の後任の第57SS所属武装擲弾兵連隊第3中隊長
    1916年9月10日フランス共和国ドルドーニュ県リベラック(Ribérac)生まれ。当初はユリアージュ(Uriage)のフランス民兵団員であったが、1943年に武装親衛隊に志願入隊し、後にSS義勇伍長となった。
    1944年8月のガリツィアの戦いには第8フランスSS義勇突撃旅団第3中隊(フネの中隊)の小隊長として参戦し、戦功によって二級鉄十字章を受章、同年秋にSS義勇曹長に昇進した。
    1945年2月下旬のポメラニア戦線には「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の小隊長として参戦し、2月24日、ハインリヒスヴァルデの戦いで中隊長ギイ・クーニルSS義勇少尉が戦死した後は中隊の指揮を引き継いだ。その後の1945年3月、ポメラニア戦線撤退時に「シャルルマーニュ」師団馬車中隊の将兵と共にソビエト赤軍捕虜となった。
    戦後はフランスに送還されて刑務所に収監されたが、1947年に南フランスのタルヌ県サン=シュルピス・ラ・ポンテ刑務所(La prison de Saint Sulpice La Pointe)を脱獄し、後に南アメリカに移住した(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Max QUIQUEMPOIX"の項目を参照)。その後の消息は不明。

  7. ^ ピエール・ミレSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Pierre Millet):フランスSS突撃大隊本部伝令班長
    1924年生まれ(生誕地は不明)。1944年8月のガリツィアの戦いと1945年2月~3月のポメラニア戦線に従軍し、常に危険な任務に志願した歴戦のフランス人義勇兵。1945年4月26日、ベルリン市街戦ノイケルンの戦いで戦死した。
    なお、ピエール・ミレはベルリン市街戦で戦死したが、戦後の1946年3月14日、オルレアンで行われた欠席裁判でミレにはフランス国籍剥奪の判決が下された(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、ANNEXES I: Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue):"Pierre MILLET"の項目を参照)。

  8. ^ アルベール・ロベラン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Albert Robelin):フランスSS突撃大隊第1中隊の隊員
    生年月日・生誕地不明のフランス人義勇兵。フランス民兵団出身。1945年のポメラニア戦線には「シャルルマーニュ」師団第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊の一員として参戦していた。1945年4月末のベルリン市街戦ではジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の第1中隊に所属し、4月29日にベルリンで戦死した(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Albert ROBELIN"の項目を参照)。

  9. ^ リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長(SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart):フランスSS突撃大隊本部小隊長
    1908年生まれ(生誕地は不明)。
    当初はフランス国内でナショナリズムを標榜する様々な政党に所属して過ごし、次第にヒトラー主義者(hitlérien、アドルフ・ヒトラーを信奉するフランス人)となったが、1940年5月~6月のフランス防衛戦の際には祖国フランスに侵入したドイツ軍に対して抗戦。捕虜収容所から釈放された後はドイツ国内を旅し、1943年、武装親衛隊に(フランス人義勇兵として)志願入隊した。
    1944年8月のガリツィアの戦いには第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第2中隊のSS義勇兵長(SS-Frw. Rottenführer)(他の文献では第3中隊の伍長(Unterscharführer))として参戦。8月22日の戦闘で負傷して後送されたが、ガリツィア戦での活躍が認められて後に下士官へ昇進し、二級鉄十字章を受章した。
    「シャルルマーニュ」師団では第57SS所属武装擲弾兵連隊第5中隊長として1945年2月末のポメラニア戦線に従軍し、3月のポメラニア戦線撤退時には行進連隊第I大隊第2中隊長を務めた。ポメラニア戦線撤退後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)では第57SS大隊第2中隊長を務め、1945年4月中旬、ピエール・ミシェルSS義勇中尉の復帰と同時期に第57SS大隊本部に転属。
    1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部小隊長として参戦。4月26日のノイケルンの戦いでは、戦闘開始直後に負傷(死亡)した第2中隊長ピエール・ミシェルSS義勇中尉の代わりに第2中隊を指揮して奮戦し、4月27日にグスタフ・クルケンベルクSS少将から直々に一級鉄十字章を授与された(その後、4月28日の戦闘で足と膝を負傷して救護所へ後送された)。
    リュシアン・アンヌカールは大戦を生き延び、戦後の1996年フランス共和国ヴォクリューズ県アヴィニョンAvignon)で亡くなった(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Lucien HENNECART"の項目を参照)。

  10. ^ マキシム・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Maxime De Lacaze):フランスSS突撃大隊第1中隊第2小隊長
    1924年8月14日フランス共和国の南西部生まれ。フランス民兵団創設当初からの古参民兵団員で、1944年11月に武装親衛隊に入隊したフランス人義勇兵。
    1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)で教育を受け、4月14日、再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)に武装連隊付上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流し、アンリ・フネの第57SS大隊に所属した。
    1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第1中隊第2小隊長として参戦。4月28日、第1中隊長代行を務めていた時の戦闘でソビエト赤軍狙撃兵に撃たれて重傷を負い、救護所へ後送されたが、そこで病院を制圧した赤軍の捕虜となった。
    しかし、ド・ラカーズは負傷で弱っていたにもかかわらず、その日の夜に病院から脱走した。モアビット区の遺棄されたアパートで夜を過ごした翌朝、その建物の上階と下階を赤軍兵が占領していることに気がついたため、再び夜になってから移動を開始。しかし、慎重に建物の階段を下りたド・ラカーズが地上に立った直後、途中で彼のポケットから落ちていた手榴弾が階段を転がり落ちて爆発した。この手榴弾の破片によってド・ラカーズは重傷を負い、建物の「隣人」(赤軍兵)が騒ぎに反応して近付いてきた。ド・ラカーズは血液型の刺青を左腋の下に施している武装親衛隊フランス人義勇兵であったが、赤軍兵は何も質問せずにこの重傷者を近くの病院まで急いで連れて行った(その後もド・ラカーズの正体を誰も確かめようとせず、彼はドイツに徴用された外国人労働者であると見なされていた)。
    フランス送還後は5ヶ月間パリのフォッシュ病院で過ごし、次いでコート・ダジュールニースに移った。そこでド・ラカーズは1人の女性、元レジスタンスのメンバーでありながらもフランス解放時に何名かの「敗北者」(対独協力者)をフランス国外へ脱出させる手助けをした人物と対面した。彼女に自身の経歴を話した後、ド・ラカーズは彼女のモーターボートによってイタリアに運ばれ、イタリアでは1人のイエズス会修道士によって保護された(Robert Forbes "FOR EUROPE"(Helion & Co., 2006)p504参照)。
    大戦を生き延びたマキシム・ド・ラカーズは戦後の1946年に南アメリカへ移住し、2000年代初頭にアルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスで亡くなった(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Maxime De LACAZE"の項目を参照)。

  11. ^ アルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Alfred Douroux):フランスSS突撃大隊本部当直将校
    1920年フランス共和国生まれ。1943年初旬に反共フランス義勇軍団に志願入隊し、後に第II大隊第6中隊に勤務したフランス人義勇兵。
    1944年9月、再編制に伴って反共フランス義勇軍団から武装親衛隊へ移籍。1945年1月から4月初旬の間にキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で教育を受けた後、カルピンで再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)に武装連隊付上級士官候補生として合流し、フネの第2当直将校を務めた。
    1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部当直将校として参戦。4月26日のノイケルンの戦いにおける活躍が「ノルトラント」師団の戦車将校に認められ、その将校の一級鉄十字章を授与された(その受章は非公式なものであったため、4月29日に改めて一級鉄十字章を公式に受章した)。その後もドゥールーは戦闘を継続し、ベルリン守備隊が降伏した5月2日にフネと共にベルリン地下鉄の構内でソビエト赤軍捕虜となった。
    アルフレッド・ドゥールーは大戦を生き延び、戦後の1998年に亡くなった(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Alfred DOUROUX"の項目を参照)。

  12. ^ ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉(SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt):フランスSS突撃大隊副官
    1914年8月27日ハノーファーHannover)生まれのドイツ人。ポメラニア戦線敗退後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)フランスSS部隊査察部の情報将校(Ic)を務めていた。
    1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉の副官として参戦し、4月29日に一級鉄十字章を受章。1945年5月2日、(詳細は不明であるが)ベルリンで死亡した(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 1: officiers"(lulu, 2011)、Annexe I:Officiers allemands et suisses de la division《Chalremagne》"Hans-Joachim von WALLENRODT"の項目を参照)。満30歳没。

  13. ^ ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet):フランスSS突撃大隊本部の下士官
    フランス共和国ドーフィネDauphiné)出身(生年月日は不明)。1943年初頭にフランス民兵団に参加し、民兵団幹部養成学校に在籍した後、1943年秋に武装親衛隊に志願入隊したフランス人義勇兵。1944年8月のガリツィアの戦い、1945年2月~3月のポメラニア戦線を経験した。
    1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部の一員として参戦し、ソビエト赤軍戦車の撃破数を戦友のウジェーヌ・ヴォロEugène Vaulot)と競い合った。1945年4月29日、ベルリン市街戦中にパンツァーファウストを用いて赤軍戦車4輌を撃破した功績により、一級鉄十字章を受章(なお、ウジェーヌ・ヴォロは8輌を撃破した功績により、騎士鉄十字章を受章した)。
    1945年5月2日、フランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉のグループの1人としてベルリン地下鉄の構内で赤軍の捕虜となった。その後、移送中にアルベール=ブリュネの腕に着いている戦車撃破章(Panzervernichtungsabzeichen)を見た赤軍兵によって射殺された(Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Roger ALBERT-BRUNET"の項目を参照)。
  1. ^ a b c d e Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 1: officiers"(lulu, 2011)、"Henri FENET"の項目を参照。
  2. ^ a b Patrick Agte "Europas Freiwillige der Waffen-SS"(Munin Verlag GmbH, 2000)p158
  3. ^ Robert Forbes "FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS"(Helion & Co., 2006) pp.45-46.
  4. ^ 同上 p56
  5. ^ 同上 p52, pp.58-59.
  6. ^ 同上 pp.61-63.
  7. ^ 同上 p66
  8. ^ a b c d Grégory Bouysse Waffen-SS Français volume 2"の項目"Annexes II: Organigrammes & divers"を参照。
  9. ^ Robert Forbes 前掲書 p79
  10. ^ 同上 p85
  11. ^ 同上 p99
  12. ^ Patrick Agte 前掲書 p161
  13. ^ Robert Forbes 前掲書 p164
  14. ^ 同上 p229
  15. ^ 同上 p258
  16. ^ 同上 p259
  17. ^ a b 同上 p263
  18. ^ a b c d e 同上 p264
  19. ^ 同上 p265
  20. ^ a b c 同上 p266
  21. ^ 同上 p382
  22. ^ 同上 p384
  23. ^ a b 同上 p386
  24. ^ アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年) p440
  25. ^ Robert Forbes 前掲書 p421
  26. ^ Tony Le Tissier "SS-Charlemagne: The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS"(Pen & Sword, 2010)pp.105-106.
  27. ^ Robert Forbes 前掲書 p423
  28. ^ 同上 p425
  29. ^ 同上 p426
  30. ^ 同上 p431
  31. ^ ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) 『SS戦車隊・下』(大日本絵画、1994年) p278
  32. ^ Robert Forbes 前掲書 p433
  33. ^ 同上 p439
  34. ^ ヴィル・フェイ 前掲書 p281
  35. ^ Robert Forbes p450
  36. ^ a b c 同上 p451
  37. ^ 同上 p453
  38. ^ a b Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Serge PROTOPOPOFF"の項目を参照。
  39. ^ Robert Forbes 前掲書 p453
  40. ^ 同上 p454脚注
  41. ^ a b c 同上 p461
  42. ^ 同上 p462
  43. ^ a b c d e 同上 p463
  44. ^ 同上 p464
  45. ^ 同上 p507
  46. ^ a b ヴィル・フェイ 前掲書 p283
  47. ^ "DER FREIWILLIGE" November 2002(Munin Verlag)p18
  48. ^ Axis History Forum・View topic - SS-Untersturmführer Jacques Leroy [1]
  49. ^ a b Patrick Agte 前掲書 p160(フネの給与支給帳の写し)参照。







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