出羽統一期
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家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏庶流の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久は、中央の実力者・織田信長に出羽守への推任を願い出るなど、この時点ではまだ最上一郡の支配すらもおぼつかない状態であった。そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。 なお、このころまでに正室を大崎氏より得て盟約を結び、天正3年(1575年)に嫡男義康が誕生している。 天正5年(1577年)、天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦して頼貞の娘(天童御前)を義光の側室に迎えた。 天正6年(1578年)、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込み、連合軍に手痛い打撃を与えた。浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。天正8年(1580年)、義光は満兼の重臣・里見民部に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、上山城を手中に収めた。 天正9年(1581年)から村山郡にも兵を進め、まずは天童氏の姻戚である小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略する。 天正10年(1582年)、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。 天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏は自刃した。 天正12年(1584年)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。 天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らが反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。 天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・義興が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・義勝(上杉家臣・本庄繁長の子)は越後に逃れた。 天正16年(1588年)2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。閏5月、豊臣秀吉により羽州探題に任命される。8月、最上勢が動けないと判断した越後の上杉景勝が家臣の本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じた。景勝の意を受けた繁長率いる上杉軍は十五里ヶ原の戦いで最上軍を破り、庄内地方は上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還された。その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。 天正17年(1589年)5月、徳川家康は片倉景綱に書状を送り、伊達政宗が最上義光と友誼を篤くするよう要請している。義光は摺上原の戦いに援軍を送ったという
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