国分盛重とは? わかりやすく解説

国分盛重(こくぶん もりしげ) 1553~1615

伊達氏 彦次郎 九郎 政重 三河守 能登守
◇父:伊達晴宗 養父国分弾正盛顕 子:国分実永、古内主膳重広
 出羽伊達氏一族だが、国分氏に入嗣し、第17代当主となって伊達氏帰属する。しかし、家中の反伊達勢力一掃することができず、その治世は不安定であった1585年人取橋の合戦では自ら3百の兵を率いて功を挙げる奥州仕置後、蒲生氏郷政宗対す疑念を解くため、蒲生方の人質になったいつ頃からか当主政宗不和でなったようで、1599年岩出山城呼び出された時、病と称して断わったところ、謀反疑われ攻められ常陸佐竹氏頼って落ちた以後佐竹家重臣として1602年佐竹氏秋田移封にも従い横手城主1千石得た大坂冬の陣従軍して今福の戦い先鋒として奮戦したが、夏の陣では病気の為従軍できず。

国分盛重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/08 13:23 UTC 版)

国分 盛重(こくぶん もりしげ)は、甥の伊達政宗に仕えた戦国時代の武将で後に久保田藩重臣。秋田伊達氏初代。はじめ伊達政重といい、さらに国分氏を継いで国分政重、ついで国分盛重と名を改め、最終的には伊達盛重と名乗った。通称は彦九郎、能登守、三河守。


  1. ^ 『性山公治家記録』巻之三、天正5年此年条(平重道『伊達治家記録』第1巻246頁)。『宮城県史』復刻版第1巻393頁。
  2. ^ 『国分文書』、『宮城県史』復刻版第1巻394頁。
  3. ^ 古内氏蔵「平姓国分氏系図」(『宮城県史』復刻版第1巻206頁)。
  4. ^ 佐久間洞巌「平姓国分氏系図」(『宮城県史』復刻版第1巻205頁)。
  5. ^ 『宮城県史』復刻版第1巻393頁。『仙台市史』通史編2(古代中世)402頁。
  6. ^ 『宮城県史』復刻版第1巻393-394頁。紫桃正隆『みやぎの戦国時代』312-314頁。『仙台市史』通史編2(古代中世)402-403頁。
  7. ^ 『仙台領古城書上』。『仙台の歴史』174頁に紹介。
  8. ^ 『奥州国分寺縁起記』、『護国山国分寺来由記』(黒沢泰輔『陸奥国分寺』13頁と22-23頁)。
  9. ^ 後に作られた大きな厨子の中に納めてあるので小厨子。その背面に、藤原朝臣政重の息災安穏などを祈って医王如来の宮殿(つまりこの小厨子)を造ったという趣旨の文が朱の漆で記されている。伊達氏・国分氏は藤原姓、医王如来は薬師如来の別名である。酒井昌一郎「陸奥国分寺の不動明王・毘沙門天・十二神将」9-10頁註6。『仙台市史』通史編2(古代中世)420頁。
  10. ^ 『貞山公治家記録』巻之一、天正13年11月17日条(平重道編『伊達治家記録』第1巻302-303頁)
  11. ^ a b 『仙台市史』通史編2(古代中世)402頁。
  12. ^ 『貞山公治家記録』巻2、天正15年4月25日条、『伊達治家記録』1の327頁。
  13. ^ 『貞山公治家記録』巻2、天正15年5月8日条。『伊達治家記録』1の329頁。
  14. ^ 『貞山公治家記録』巻2、天正15年条に「国分から帰った」と記される。伊東肥前(重信)が5月22日、6月19日、8月4日(『伊達治家記録』1の330頁、332頁、335頁)。浜田景隆が6月20日(332頁)。高野親兼(親兼)と片倉紀伊が8月2日(335頁)。
  15. ^ 『貞山公治家記録』巻2、天正15年10月16日条、宛の書状。『伊達治家記録』1の341頁。
  16. ^ 『貞山公治家記録』巻2、天正15年10月16日条。『伊達治家記録』1の341頁。
  17. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)411頁。
  18. ^ 紫桃正隆は、『伊達治家記録』の記事に出てくる名をたどって、天正15年(1587年)か16年(1588年)頃に改めたのではないかと推測する(『みやぎの戦国時代』315頁)。羽下徳彦は天正14年(1587年)に改めたとする(仙台市史』通史編2の411頁)。
  19. ^ 『貞山公治家記録』巻之十五、天正18年12月17日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻246頁)。
  20. ^ 『貞山公治家記録』巻之十五、天正18年12月25日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻247頁)。
  21. ^ 浅野長吉(浅野長政)の家臣。
  22. ^ 『貞山公治家記録』巻之十六、天正19年正月元日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻251頁)。成実は大森で解放されたと伝えられるが、盛重の解放がこれと同時かは不明である。
  23. ^ 『貞山公治家記録』巻之十六、天正19年6月14日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻283頁)。
  24. ^ 『貞山公治家記録』巻之十六、天正19年6月25日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻288頁)。巻之十七、天正19年7月7日条(293頁)、8月7日条(301頁)。
  25. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)411-412頁。
  26. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)412頁。『貞山公治家記録』は屋代景頼が留守居役になったとする(巻十八上、文禄元年正月5日条。平重道編『伊達治家記録』第2巻329頁)。
  27. ^ 『貞山公治家記録』巻之十八、天正20年5月8日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻342頁)。
  28. ^ 『宮城県史』復刻版第2巻34-35頁。
  29. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)412頁。
  30. ^ ただし、この三人は盛重と違いのちに伊達家に帰参している。
  31. ^ 義宣の母(宝寿院)は伊達晴宗久保姫岩城重隆の娘)の娘で盛重の姉。 また、久保姫の母方の祖母が佐竹義舜(第15代当主、義宣の高祖父)の娘であるため、盛重ら自身も佐竹の血を引いている。
  32. ^ このほか御落胤事件あり。 享保6年(1721年)、国分荘七北田の国分盛春(川村玄硯)という医者が、盛重と国分盛廉の娘の男児、盛廉の娘に仕えた女性が伊達政宗の妾となって生まれた落胤双方の血を引く(つまり政宗の孫で盛重の曽孫)と名乗り出て証拠となる物を提示し、仙台藩に相応の扶持を求めた。 藩は十数年の詮議の末、これを偽者と結論づけ、磔刑、親族らも遠島に処した。(『伊達治家記録』)


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