出羽松山藩とは? わかりやすく解説

出羽松山藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:49 UTC 版)

庄内藩」の記事における「出羽松山藩」の解説

松山藩まつやまはん)は、庄内藩領より分与された新田領有した藩。出羽国飽海郡松山山形県酒田市)に居所構え廃藩置県まで存在した石高2万5,000石(立藩時は2万石)。明治2年1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した庄内藩初代藩主酒井忠勝三男・忠恒が、正保4年1647年庄内藩領のうち新田など2万石を分与されたことに始まる。3代・忠休は奏者番経て若年寄累進した。このため5,000石を加増され、さらに城を構えることを許され以後藩庁松山城となったしかしながら幕閣参与したために経費がかさみ藩財政悪化した。これに対し家臣隠居要求した認められなかった。 幕末には本藩である庄内藩従い奥羽越列藩同盟与し明治政府軍に降伏時の藩主忠良藩領のうち2,500石を減封され、隠居命じられた。 明治4年1871年)、廃藩置県により松嶺県となり、酒田県鶴岡県経て山形県編入された。藩主家明治17年1884年)に子爵となり華族列している。

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出羽松山藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)

宝暦の飢饉」の記事における「出羽松山藩」の解説

庄内藩支藩出羽松山藩でも宝暦5年大凶作の影響受けた同年藩士への給与支給に際して扶持米を9斗1両として計算したが、1石2両ほどに米価高騰したため、実質的に半額支給の形となった。これに不満をもった江戸詰徒士足軽が、藩主登城御供拒否する事件起きた

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