出羽松山藩
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松山藩(まつやまはん)は、庄内藩領より分与された新田を領有した藩。出羽国飽海郡松山(山形県酒田市)に居所を構え、廃藩置県まで存在した。石高は2万5,000石(立藩時は2万石)。明治2年(1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。 庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男・忠恒が、正保4年(1647年)庄内藩領のうち新田など2万石を分与されたことに始まる。3代・忠休は奏者番を経て若年寄に累進した。このため5,000石を加増され、さらに城を構えることを許され、以後、藩庁は松山城となった。しかしながら、幕閣に参与したために経費がかさみ藩財政は悪化した。これに対し家臣は隠居を要求したが認められなかった。 幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。時の藩主・忠良は藩領のうち2,500石を減封され、隠居を命じられた。 明治4年(1871年)、廃藩置県により松嶺県となり、酒田県・鶴岡県を経て山形県に編入された。藩主家は明治17年(1884年)に子爵となり華族に列している。
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出羽松山藩
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庄内藩の支藩出羽松山藩でも宝暦5年の大凶作の影響を受けた。同年の藩士への給与支給に際して、扶持米を9斗1両として計算したが、1石2両ほどに米価が高騰したため、実質的に半額支給の形となった。これに不満をもった江戸詰徒士や足軽が、藩主の登城の御供を拒否する事件が起きた。
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