中国の統一支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
詳細は「モンゴル・南宋戦争」を参照 大元を建てた当初のクビライは、金を滅ぼして領有した華北を保有するだけで、中国全体の支配はいまだ不完全であり、南宋の治下で発展した江南(長江下流域南岸)の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、1268年漢水の要衝襄陽の攻囲戦を開始する。 クビライは、皇后チャブイに仕える用人であった中央アジア出身の商人アフマドを財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた高麗を通じ、南宋と通商していた日本にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の鎌倉幕府はこれを拒否したため、クビライは南宋と日本が連合して元に立ち向かうをの防ぐため、1274年にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、対馬・壱岐島、九州の大宰府周辺を席巻しただけに終わった(文永の役)。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の征東行省と高麗政府が一体化し、新服の属国であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。 1273年になると、襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなどして南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。1274年、旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると、防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、1276年に首都臨安(杭州)が無血開城する。恭帝をはじめとした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の残党を1279年の崖山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後述する経済制度を整備した。 しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。1281年には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり(弘安の役)、1285年と1288年にはベトナムに侵攻した軍が陳朝に相次いで敗れた(白藤江の戦い)。1284年から1286年にかけての樺太遠征でアイヌを樺太から排除し、ビルマへの遠征では1287年に首都パガンの占領に成功したが、現地のシャン人の根強い抵抗に遭い恒久的な支配を得ることはできなかった。さかのぼって1276年には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子シリギが反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは3度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、1287年には、即位時の支持母体であった東方三王家がナヤンを指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。また、1292年にジャワ遠征を行っているが、これも失敗に終わっている。もっとも、東南アジアへの遠征は商業ルートの開拓の意味合いが強く、最終的には海上ルートの安全が確保されたため、結果的には成功したと言える。 クビライの死後、1294年に孫のテムルが継ぐがその治世期の1301年にカイドゥが死に、1304年に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は皇帝を頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆるシルクロード交易は唐代以来の活況を呈した。この状況を指して「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ぶことがある。 元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ・ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられた。江南の港湾諸都市の海上貿易も宋代よりは衰退したものの繁栄しており、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本とも、官貿易や密貿易船はある程度の往来が確認される。
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