弘安の役
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1281年の弘安の役でも高麗軍の司令官として、兵1万を率いて参戦する。 5月3日、合浦を出港した日本遠征軍の先発隊(東路軍)は、21日、対馬と壱岐を相次いで襲撃し、野山に逃げ隠れた島民を掃討する。6月6日、元軍は博多湾に侵入し志賀島に上陸、日本兵を300人ほど討ち取って気勢を上げるが、豊後・関東隊の返り討ちに遭い、戦線が崩壊して海上に後退する(原文:翼日復戦敗績)。この戦いで、洪茶丘は討ち取られる寸前まで追い込まれるが、友軍の援護により、間一髪で退却に成功している。 その後も元軍は、海上で散発的な襲撃に遭うなどして敗退を重ねた(原文:累戦不利)。 九州への上陸が叶わない元軍では、船底は腐り伝染病が流行、食料も不足する。ここに至り、忻都(総司令官)・洪茶丘(高麗人司令官)らは、「皇帝のお言葉によると、我が軍はとっくに南宋軍と合流しているはずだったんだが、我が軍が数回戦っても南宋軍は来ない状態である。南宋軍は何をしている」と迷ったが、金方慶は「皇帝の命令を奉り、食料を3ヶ月分も携えて来たのだから、後1ヶ月は持ち堪えられる。南宋軍との合流が成されれば、我が軍の勝利は間違いない。」と主張した。 7月、疫病の蔓延により船上で3000人余りの死者を出しながらも、元軍は南宋軍10万との合流を果し、鷹島沖に集結する。しかし船団は、強固な元寇防塁を盾とする日本側の迎撃や松浦党の襲撃などにより、九州への上陸を阻まれたまま7月末、折からの暴風雨に曝されて壊滅状態となる。 この状況にあっては、徹底抗戦を主張してきた金方慶も作戦の継続を断念せざるを得ず、無事だった船を選ぶと、残存兵を見捨て合浦へと帰還した。 破損し漂流する船団に残された兵・水夫の多くは、武士団の討伐を受け討ち取られた。『日本外史』によると、「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」という。また、鷹島などに置き去りにされた将兵は、伐採した木で船を造り帰還を試みるも、竹崎季長ら幕府御家人による掃討戦で全滅する。
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弘安の役
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蒙古(元)は弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。弘安4年5月、東路軍が高麗の合浦(がっぽ)を出発、対馬・壱岐に上陸して住民を殺害した後、6月6日、江南軍との合流を待たず、東路軍だけで博多湾に到着し、上陸作戦を開始した。東路軍と江南軍は、7月初旬、平戸島付近でようやく合体したが、閏7月1日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却していった。 弘安の役に際し戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」と、教信の苦衷を汲み取りながら後生の成仏は間違いないと励ましている。 弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する機会だったが、一方で承久の乱の再来とはならず真言僧の祈祷で勝利してしまった。 『富城入道殿御返事』では、予想外の事態に困惑している様子が伺える。日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。
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