三好政権の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:56 UTC 版)
上洛後の長慶は復帰を狙う晴元・義輝との交戦を続けたが(中尾城の戦い、相国寺の戦い)、天文21年(1552年)に義輝と和睦して京都に迎え、同時に細川氏の家督を晴元から氏綱に挿げ替え氏綱を管領に据えた。天文22年(1553年)には細川政権が度々政務の拠点としていた芥川山城城主芥川孫十郎が長慶に反抗をしたのを機に芥川氏を討って芥川山城を奪うと、本拠地を芥川山城に移転して細川政権の継承者であることを内外に示した。将軍と管領であるこの2人は長慶の傀儡であり、ここに室町幕府の権力者を擁した三好政権が実質的に機能することとなった。 しかし、幕府再興を目指す義輝及び晴元との対立はその後も続き、義輝を近江に追放しては連れ戻すという事態が相次ぎ、その間長慶は何回か暗殺未遂事件に遭遇している。最終的に義輝と和睦したのは永禄元年(1558年)、北白川の戦いの後に六角義賢の仲介を受けてのことである。永禄4年(1561年)に晴元との和睦も成立、13年に渡る対立に終止符を打った。 また、細川氏綱についても、長慶が氏綱を擁立する前から氏綱を支持してきた丹波守護代の内藤国貞が依然として支持者として控えており、その存在は決して軽視できるものではなかった。氏綱と長慶の立場が逆転をするのは、長慶が幕府の御供衆に加えられ、また内藤国貞が晴元方に討たれた天文23年(1553年)以降とみられている(長慶は松永久秀の弟・長頼を国貞の後継者にすることで同国を氏綱から切り離した)。ただし、氏綱およびその家臣はその後も三好政権に協力しながらも一定の勢力を維持し続けており、氏綱は義輝や晴元に対抗するために実質的な権力を長慶に委ねて権力の一本化を図る代わりに京兆家当主・摂津守護としての立場を保ったと捉えて、長慶や三好政権にとって氏綱は単なる傀儡ではなく積極的な協力者であったとして再評価する馬部隆弘の見方もある。 幕府と和解した永禄元年以降、三好政権は最盛期に突入するという見方がある。だが今谷明は、義輝と和解して以降の三好政権は、将軍を復権させ、政権の主導権を彼に譲渡する形となり、弱体化したと評する。今谷は「河内・大和の支配権を手に入れたが、二ヵ国の領国入手程度で穴埋めできるようなものではない痛手を蒙った」「長慶は独裁者から陪臣の地位に転落した」と評している。一方で天野忠幸は、この和睦を「三好政権の敗北」と見なすかどうかは慎重な検討を要すると今谷のような見解に反論をしている。 長慶は将軍と戦いながら外征も行い、版図を畿内・四国に拡大し、永禄年間までには山城・丹波・摂津・播磨・淡路・阿波・讃岐・伊予・和泉・河内・大和・若狭・丹後の一部など13カ国以上に及ぶ大領国を形成している。当時、今川氏は3カ国、甲斐武田氏は2カ国、安芸毛利氏は4カ国、出雲尼子氏は6カ国であったから、長慶の勢力は諸国でも抜きん出たものであった。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:4px}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{border:solid #eaecf0 1px}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 三好義興 三好実休 安宅冬康 十河一存
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