ヤウズ
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「怪盗クイーンシリーズ」の記事における「ヤウズ」の解説
本人は認めていないが皇帝の弟子兼料理当番である15歳位の少年。長髪をオレンジ色の紐で後ろで一つにくくっている。前髪のみ黄色に染めている。
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ヤウズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:10 UTC 版)
「ゲーベン (巡洋戦艦)」の記事における「ヤウズ」の解説
1918年10月30日、オスマン帝国の使者がイギリス戦艦アガメムノン (HMS Agamemnon) を訪問し、地中海艦隊司令長官カルソープ提督は単独講和をむすぶ(ムドロス休戦協定)。1920年8月にはセーヴル条約が結ばれ、オスマン帝国は連合国によって分割された。第一次世界大戦は終結したが、バルカン地域ではアルメニア・トルコ戦争、フランス・トルコ戦争(英語版、フランス語版、トルコ語版)、ギリシャ・トルコ戦争が勃発し、相変わらず不安定であった。オスマン帝国がトルコ革命によって滅亡し、アンカラ政府が承認されてトルコ共和国が成立する。旧オスマン帝国海軍の艦船はトルコ海軍の管轄下に入る。ローザンヌ条約により、トルコ共和国は連合国から主権国家として認められた。なお一連の国際条約により賠償請求問題に決着がつき、戦艦レシャディエ(エリン)とスルタン・オスマン1世(エジンコート)を巡る金銭問題も解決した。 1926年から1930年にかけてフランスのサン=ナゼール・ペノエ造船所によってギョルジュク海軍工廠にて修理と平行して第一次近代化改装が行われ、石炭専焼主ボイラーを石炭・重油混焼缶へ改造する事により出力・速力の改善がなされた。また、射撃指揮装置の更新、更に大戦の戦訓により水中魚雷発射管の撤去による水雷防御の向上がはかられ、8.8cm高角砲や40mm機関砲を装備して対空攻撃能力向上がなされた。 改装後にトルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ・セリム (Yavuz Selim) として再就役し、さらに1936年にヤウズ (Yavuz) と改名した。1938年、ケマル・アタテュルクの遺体をイスタンブールからイズミットまで運んだことで、トルコではよく知られている。 ヤウズに大きな改装がなされることはなかったが、1941年の第二次近代化改装で対空射撃の障害となっていた後檣が撤去され、そのままの姿で第二次世界大戦後も在籍した。第二次世界大戦でトルコ共和国は中立を表明したが、1945年2月23日に連合国として枢軸国(ナチス・ドイツ、大日本帝国)に宣戦布告した(第二次世界大戦の参戦国)。これは参戦が国際連合への参加条件だったこと、ソビエト連邦の南下政策と領土割譲要求が脅威だったからである。 本艦は1948年には、軍事的というよりも既に象徴的な存在となっていたが、1952年にはNATOの艦番号370を付けられた。1954年に退役し予備艦となった後の1963年に、西ドイツ政府より購入の申し入れがあったがトルコ政府はこれを拒否した。1966年になると今度はトルコ政府より西ドイツへ売却が持ちかけられたが、当時の西ドイツの政治状況の変化により旧時代の記念艦に過ぎないヤウズが買収されることはなかった。結局、1971年に解体業者に売却され、1973年6月7日に港を離れた後、同年7月から1976年2月にかけ、両大戦を経験した最後の巡洋戦艦は解体された。 現在、トルコ海軍の母港があるコジャエリ県ゴルジュク(英語版)に、ヤウズのスクリュープロペラが展示されている。
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