ミシシッピ文化
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ミシシッピ文化(ミシシッピぶんか、英:Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、およそ800年から1500年まで、現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、地域により様々な形態をなした[1]。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。
- ^ [1]
- ^ en:Southeastern Ceremonial Complexの直訳。日本国内では一部の研究者により「サザン・カルト」の名で知られるがSoutheastern Ceremonial Complexの定訳はない。Antonio J.Waringが1945年の論文で、エトワー、マウンドヴィル、スパイロ出土のサザン・カルトのモチーフの比較分析をAmerican Anthropologist誌で行った際にこの用語を初めて用いた。
- ^ Bense pp. 256-257, 275-279
- ^ Hudson pp. 334
- ^ これは日本語においても直訳しないことが学術上の慣例になっている。
- ^ “"Southeastern Prehistory: Mississippian and Late Prehistoric Period"”. "National Park Service". 2007年12月4日閲覧。
- ^ stageは、考古学用語でとくに段階と訳す必然性がなければ、日本語では「期」と訳すと的確な場合が多い。
- ^ ミシシッピ文化については、ミシシッピ川中流域のMiddle Mississippianのほかに五大湖周辺のOneota(オネオタ)、ルイジアナなど下流域のPlaquemine(プラケメン、cf.ナチェズ族)などと称される地域的な個性をもつ文化圏を形成していた。
ミシシッピ文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 18:44 UTC 版)
「インディアナ州の歴史」の記事における「ミシシッピ文化」の解説
ホープウェル文化の崩壊後、西暦900年頃のミシシッピ文化の興隆まで、インディアナには人口が少なかったということを示唆する証拠がある。オハイオ川渓谷は1100年頃から1450年までミシシッピ文化の人々によって人口が著しく増加した。その居住地は、以前のホープウェル文化と同様に、儀式用マウンドで知られており、マウンドの多くは現在でも残っている。ミシシッピ文化のマウンドはホープウェル文化のマウンドよりも壮大な規模で造られた。ミシシッピ文化は農耕社会であり、トウモロコシの農産物化を果たした。ミシシッピ文化が普及したときに弓矢や銅器も完成された。ミシシッピ文化の社会は、3万人におよぶ住人を抱える都市に発展した。その都市は川の近くにあるのが通常であり、中央の大きなマウンドと幾つかの小さなマウンド、それに開かれた広場があり、たいていは壁で囲まれていた。エンジェル・マウンドと呼ばれる大きな定着地が、現在のインディアナ州エバンスビルの東にある。ミシシッピ文化は15世紀の半ばに、未だ不明の理由で消失した。インディアナにおけるその消失は、ヨーロッパ人が最初にこの地域に到着する約200年前に起こった。ミシシッピ文化はインディアナにおける先住民族発展の頂点であった。 インディアナに関係の深い先住民族はマイアミ族とポタワトミ族だった。彼らはフレンチ・イロコイ戦争の後、17世紀遅くにインディアナに入った。これらの種族は、それに先立つミシシッピ文化よりもかなり遅れていた。新しい種族は回遊性の者達であり、石器の使用に戻り、先人がおこなっていた大規模構造物の建設や農業を踏襲しなかった。レナペ族のような他の種族がヨーロッパ人開拓者に押し出される形で西に移動した。マイアミ族は1770年頃にホワイト川沿いにレナペ族が定着するようにした。ショーニー族がさらに後に到着したが、彼らはもっと前の時代にオハイオ川渓谷に住んでいた可能性がある。これら4種族は五大湖地域の支配権を巡って、先住民族と白人との間の闘争である60年戦争に参加した。
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ミシシッピ文化
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詳細は「ミシシッピ文化」を参照 ミシシッピ文化は北アメリカ南東部と中西部の大西洋岸からグレートプレーンズの外れまで、メキシコ湾から中西部の北端まで拡がっていた。特に集中していたのがミシシッピ川沿岸地帯だった。この文化の特徴的な面の1つが大きな土盛マウンドの建設であり、それ以前の文化のマウンド造りの伝統を承継したものだった。彼等はトウモロコシなどの作物を広範に栽培し、広い範囲の交易ネットワークに参加し、複雑で多層化した社会を形成した。ミシシッピ文化は、ウッドランド期農業がまだ発展せず中央集権も進んでいなかった文化を継承して発展させ、西暦1000年頃に最初のものが生まれた。この文化で最大の場所は現在のイリノイ州イーストセントルイスに近いカホキアであり、その人口は2万人以上に達したと考えられている。12世紀から13世紀にかけての最頂期、カホキアは北アメリカで最も人口の多い都市だった。 この時期、メソアメリカや南アメリカでは遙かに大きな都市が建設されていた。カホキアの祭祀の中心的存在だったモンクスマウンドは前史時代の新世界では最大の土盛構造物であり続けている。この文化は1200年から1400年頃にその最盛期を迎え、多くの場所ではヨーロッパ白人が来る前に衰退を始めていたと考えられている。ミシシッピ文化の多くの部族が1540年代のエルナンド・デ・ソトによる遠征隊に出逢っており、両サイド共に悲惨な結果に終わった。メソアメリカで比較的少ない軍勢で広大な帝国を征服したスペインの遠征隊とは異なり、エルナンド・デ・ソトの遠征隊は同地のインディアン部族を手当たり次第に大量虐殺した挙句、4年間南東部を歩き回り、みすぼらしい姿になって、多くの隊員や装備を失い、ソトは最期には南部で頓死、当初の隊員のほんの一部がメキシコに到着した。土地の人々の方がさらに多くの恐怖を抱いた。デ・ソトの遠征隊によってもたらされた社会的混乱と病気によってインディアン社会は大きな打撃を受けた。それから100年後にヨーロッパ白人が戻ってきた時までに、病原菌のためにミシシッピ文化部族のほとんど全てが消滅しており、その広大な領土にはほとんど人が住んでいなかった。
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ミシシッピ文化
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「先史時代の北米大陸」の記事における「ミシシッピ文化」の解説
ミシシッピ文化期になるとセントルイス郊外にあるカホキアやジョージア州エトワー、アラバマ州マウンドヴィルなどに首長制国家の「首都」と目されるような巨大なマウンド群が築かれた。また、ミシシッピ文化期は、オハイオ州のサーペント・マウンドに見られるように蛇や獣、鳥など動物の姿をかたどって土を盛り上げた形象墳(effigy mound)も盛んに造られたことでも知られる。
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