ミシシッピ計画
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ミシシッピ計画(みししっぴけいかく, 仏: Compagnie du Mississippi)は、18世紀初頭に北アメリカに植民地を有していたフランスが立てたミシシッピ川周辺における開発・貿易計画。ミシシッピ会社とも言う。
- 1 ミシシッピ計画とは
- 2 ミシシッピ計画の概要
- 3 バブル崩壊後の結果
- 4 参考文献
ミシシッピ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「ミシシッピ計画」の解説
詳細は「ミシシッピ計画」を参照 南海泡沫事件とほぼ同時期、フランスではミシシッピ計画にともなう株価の高騰と暴落が起こっている。1717年にスコットランドの実業家ジョン・ローが、当時誰からも見放されていたミシシッピ会社の経営権を入手し、ルイジアナ植民地などミシシッピ川流域の北米フランス植民地との貿易にたずさわる権利を得た。 折しも1718年、かねてよりミシシッピ川流域を探検していたモントリオール生まれのジャン・バティスト・ヴィヤンヴィル総司令官が、ミシシッピ川とポンチャートレーン湖にはさまれた三角州に新しい町ラ・ヌーヴェル・オルレアン(現在のニューオーリンズ)を建設した。町の名は植民のパトロンでもあった摂政オルレアン公(フィリップ2世)にちなんで付けられた。 フランス政府は、ジョン・ローの会社に北米および西インド諸島との貿易について25年の独占権を保証し、1719年、フランス東インド会社や中国会社、その他のフランスの貿易会社を併合して翌年には王立銀行を所有するまでに至った。ジョン・ローは、ルイジアナの資源を誇張して伝え、事業計画を巧みに説明した。1719年、この会社の株式は熱狂的な投機対象となり、株価は500リーブルから15,000リーブルに高騰した。しかし、1720年夏、突如として信用不安が起こり、1721年には再び500リーブルまで下落した。ジョン・ローは、1720年のうちに摂政オルレアン公によって解任され、国外に逃亡した。 この2つのバブル事件は、英仏における広汎な資本の蓄積と「金あまり現象」を物語ると同時に、人びとのアメリカ大陸への関心がヨーロッパの景気を左右するまでに至ったことを示している。
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