フランク王国におけるフランク人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)
「フランク人」の記事における「フランク王国におけるフランク人」の解説
メロヴィング朝によってガリア全域の支配を得たフランク王国は、768年のピピン3世の即位以来、カロリング朝の王家によって支配されるようになった。このカロリング朝の王カール1世(大帝)は西ヨーロッパ全域を征服し、800年には「ローマ皇帝位」を獲得した。 フランク王国の支配層には建国当初より、ガロ・ローマ人の貴族や、西ゴート人、アレマン人、ブルグント人、バイエルン人の貴族が加わり、特にガロ・ローマ人たちは教会内部で支配的役割を担った。また、これらの諸民族(部族)は、フランク王権に服属したものの、それぞれ固有の言語、法律、習俗を維持していた。フランク人の法律とローマ帝国に起源を持つ「国家法」は全土に適用されたが、実態としては王国の部分ごとに実効性に大きな差異があった。しかし、全体としては、王国の名称「フランク人の王国(regnum Francorum)」からも、国王の称号「フランク人の王(rex Francorum)」からも、この王国がフランク人という一部族に依拠する支配団体であることは明確に示されている。フランク人自体も様々な身分と階層に分かれていたが、総体として彼らは国家法の意味での王国の担い手と見做され、格別の部族意識、帝国意識が生み出された。ドイツの歴史学者ゲレト・テレンバッハ(英語版)はカロリング朝期に「貴族層のトップを構成し、国王や一部の高位聖職者と並んで帝国政治に決定的役割をになった」エリート貴族階層を「帝国貴族層(Reichisaristokratie)」と名付け、分析を行った。それによれば8世紀から10世紀にかけて史料から抽出される帝国貴族層42家門111人のうち、6割以上をフランク人が占めていたとしている。 広大な王国の東西に居住するフランク人たちは、多様な言語環境に置かれていた。ガリア地方においては、ガロ・ローマ人たちがローマ帝国以来のラテン語を使用していたが、時と共に古代の発音、文法規範から離れつつあった(俗ラテン語)。文章語であり神への祈りの言語でもあったラテン語の「乱れ」を正すべく、カール1世と取り巻きの学者たちはカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化的潮流の中で、「正しいラテン語」の制定を試みた。この正しいラテン語の制定は、正しくないラテン語(俗ラテン語)が、ラテン語の変種(俗ラテン語)ではなく「別種の言語」と定義される切っ掛けとなった。中世ラテン語の確立の後、ラテン語からこれらの「田野風のラテン語」への「翻訳」が問題となるようになり、ここをロマンス語とラテン語の分岐点とする考え方が、ラテン語学者やロマンス語学者によって概ね認められている。 北部ガリアのフランク人たちは現地のガロ・ローマ人の言語を取り入れ、ロマンス語を日常の言語として使用するようになっていった。この西方のフランク人は9世紀半ばにはまだフランク語を理解できたが、既に相当程度ロマンス語化していたと考えられる。一方で東方のフランク人たちは古来からのフランク語(ゲルマン語)を維持し、これは文章語としてのラテン語と並び、支配階級の言語として王国の共通語として通用していた。こうした状況は、842年にストラスブールでルートヴィヒ2世とシャルル2世が行った同盟の誓約(ストラスブールの誓約)に端的に表れている。この誓約は、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同じ内容を互いの言語で反復し、誓約を行うという形式がとられた。
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