フランク王国とフランスの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:37 UTC 版)
「フランス」の記事における「フランク王国とフランスの成立」の解説
5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、476年に西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。クローヴィスは496年にカトリックに改宗し、フランク族はキリスト教を受け入れた。やがてメロヴィング朝の宮宰であったカロリング家の勢力が拡大し、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。その子であるピピン3世は751年にメロヴィング朝のキルデリク3世を退位させて即位し、カロリング朝を開いた。 フランク王国はピピンの子であるシャルルマーニュ(カール大帝)の時代に最盛期を迎える。彼はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、その子であるルイ1世が840年に没すると、フランク王国は西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国の3つに分裂し、このうち西フランク王国が現在のフランスの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。 987年、西フランク王国の王統が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてカペー朝が成立した。カペー朝の王権は当初非常に弱体で、パリを中心とするわずかな領土を直接支配するのにすぎなかったが、1180年にフィリップ2世が即位すると国内の所領を次々と獲得して王領を拡大し、1223年に彼が退位する頃にはフランスはヨーロッパの大国のひとつとなっていた。1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた。また12世紀にはフランス全土で「大開墾時代」と呼ばれるほどの農地拡大が起き、13世紀には人口が激増した。カペー朝はその後も ルイ9世やフィリップ4世といった有能な国王の下で勢力を拡大していったものの、1328年に王統が断絶してフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝が成立した。 しかしこの即位を巡ってカペー家の血を引いているイングランド国王エドワード3世との対立が深まり、1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている。この戦争の後半にはフランスは一時国土の北半を奪われるまでになったものの、ジャンヌ・ダルクの活躍をきっかけとして攻勢に転じ、1453年にはシャルル7世のもとでカレーを除くすべてのフランス領を奪回して勝利を収めた。その子であるルイ11世は国内統治の充実を図るとともにブルゴーニュ戦争で有力諸侯であったブルゴーニュ公の領国を崩壊させ、充実した国力の元でその子であるシャルル8世は1494年にイタリア戦争を起こした。
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