フランク王国にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:35 UTC 版)
782年から790年まで、アルクィンはフランク王国の宮廷学校で、王や家族、学問のため集まった若者、および宮廷礼拝堂の若い聖職者に教えた。ピピン(カール大帝の子)とアルクィンの対話の中に、彼らが行った学問の例が見られる。教育改良運動に関して残っている1つの資料は、アルクィンが書いたカール大帝の回状De Litteris Colendis(On the Study of Letters)である。 790年、アルクィンはイングランドへ戻ったが、カール大帝は北スペインに勢力を持っている養子的キリスト論(養子論)に対抗するため、再びアルクィンを招いた。その頃、トレド大司教のエリバントゥスとウルヘル(Urgel)の司教フェリックスが、イエスは人間で神の養子になったという、異端説を唱えていた。794年のフランクフルト教会会議では、アルクィンが正統の主張により勝利した。
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