カタリ‐は【カタリ派】
カタリ派
カタリ派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:59 UTC 版)
詳細は「カタリ派」を参照 カタリ派 カタリ派はグノーシス主義の集団による運動であった。カタリ派はアルビジャンとも呼ばれた。当時のカトリック教会から異端の烙印を押されたこの運動は、10世紀中葉頃に始まった。西ヨーロッパの至る所に存在したが、本拠地はラングドックと南フランスの周辺地域にあった。モンセギュール要塞はカタリ派の最後の砦の一つであった。1244年にモンセギュールが陥落すると、生き残ったカタリ派は、ケリビュのアラゴンとの国境の別の山頂要塞に集結した。 カタリ派は「純粋な」を意味するギリシャ語のkatharosが語源であるとするのが最も有力である。初めて記録された用法の一つが、1181年にケルンから異端について「Hos nostra Germania catharos appellat」を書いたエクベルト・フォンシェーナウであった。この名称は12世紀末から始まり、1181年に年代史家ジョフロワ・デュ・ブルイユにより用いられた。この名称は南部の都市アルビ(古代のアルビガ)に関連している。中心がトゥールーズや近郊の地域にあったために、この名称は殆ど正確ではない。カタリ派はフランス南部やイタリア北部、神聖ローマ帝国南西部で強かった。ボスニア教会として知られるボゴミル派は、ボスニアで強く、ボスニア国王に支援された公的な宗教であった。 カタリ派の二元論者は、歴史的な事件は良い力と悪い力のせめぎ合いの結果であり悪い方が世界を支配するが禁欲主義や善い行いを通して支配されたり敗北することが可能だと信じた。 アルビジョア十字軍はラングドックのカタリ派の異端を除くためにカトリック教会が音頭をとった20年にわたる軍事行動であった。実践的なカタリ派の数に重大な減少が見られなかったがオクシタニアの再編成にはつながり、フランス王の支配下に持ち込みアラゴンの影響による別個の地域文化と高度化を減らしながら、十字軍はフランスを中心にして行われ、即座に政治的な主導権を獲得した。カタリ派に戻ろうとするインノケンティウス3世の試みが殆ど成功せず教皇の使節カステルノのピエールが殺害されると、武器を取ろうとするフランス貴族にカタリ派の異端の土地を提供しようと申し出ながら、インノケンティウス3世はラングドックに対する十字軍を提案した。暴力はカタルーニャと文化的言語的に近い関係のフランスが土地を取得することになった。アルビジョア十字軍はドミニコ修道会や中世の宗教裁判の双方の創設と制度化に役割も果たした。シモン4世・ド・モンフォールは、第4回十字軍に参加したフランス貴族で、アルビジョア十字軍の有名な指導者であった。1218年にトゥールーズ包囲戦で死亡した。
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