フットボール・アソシエーション
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ザ・フットボール・アソシエーション(英: The Football Association)は、イングランドのサッカーを統括する国内競技連盟。略称はThe FA(ザ・エフエー)である。1863年に創立された世界最古のサッカー協会であるため、英語の正式名称は国名を表す修飾語を用いず定冠詞 'The' のみを伴う形で表記される。なお、日本語の報道ではイングランドサッカー協会との呼称が定着している他、サッカー専門の雑誌などでは 'The FA' から定冠詞を省いたFA等の呼び名でも表記される。
- 1 フットボール・アソシエーションとは
- 2 フットボール・アソシエーションの概要
フットボール・アソシエーション
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「フットボール」の記事における「フットボール・アソシエーション」の解説
詳細は「フットボール・アソシエーション#歴史」を参照 1860年代初期、イングランドにおいて様々なパブリックスクールのゲームを統合・調和させる試みが進められていた。1862年、後にアッピンガム校(英語版)の教師となるJ. C. Thringは、彼が「The Simplest Game」と呼ぶ新たなルールを考案した。これらは「アッピンガム・ルールズ」としても知られている。Thringのルールは通常ケンブリッジ・ルールズとは見做されていない。1863年10月初頭に、ハロー、シュルーズベリー、イートン、ラグビー、マールバラ、ウェストミンスターの卒業生を代表する7名の委員会によってケンブリッジ・ルールズの新たな改訂版が策定された。 1863年10月26日の夜、ロンドン、グレート・クイーン通りのフリーメーソンズ酒場において、ロンドン大都市圏のいくつかのフットボールクラブの代表が、フットボール・アソシエーション (FA) の設立会合に集った。この協会の目的は、単一の統一ルール体系を確立し、会員間での試合のプレーを規制することであった。初会合に続いて、パブリックスクールが協会への加盟を要請された。チャーターハウスとアッピンガム以外のパブリックスクールはこの誘いを辞退した。1863年10月から12月の間に合計6回のFAの会合が行われた。3回目の会合の後、ルールの草稿が発表された。しかしながら、4回目の会合の始めに、直近に発表された1863年版のケンブリッジ・ルールズに注目が集った。ケンブリッジ・ルールズはFAのルールの草稿とは、ボールを持って走ることとハッキング(相手の脛を蹴ること)の2つの点で大きな違いがあった。 議論を引き起こしたFAのルールは以下の2つである。 IX. 選手はフェアキャッチあるいはワンバウンドしたボールをキャッチした場合、対戦相手のゴールに向かって走る権利を得るものとする: しかしフェアキャッチの場合、マークを行った場合は走ってはならないものとする。X. もし選手が対戦相手のゴールに向かって走れば、相手側の選手は彼にチャージ、ホールド、トリッピング、ハッキング、あるいは彼からボールを奪い取る自由があるものとするが、同時にホールドとハッキングをすることはできない。 — 5回目の会合において、これら2つのルールを削除する提案が成された。代表者のほとんどがこれを支持したが、ブラックヒースの代表でFAの初代会計係であったF・M・キャンベルが異議を唱えた。キャンベルは「ハッキングこそが真のフットボールである」と述べた。しかしながら、ボールを手に持って走ることとハッキングの禁止の動議が可決され、ブラックヒースはFAを脱退した。12月8日の最後の会合の後、FAは後にアソシエーション・フットボールとして知られるスポーツの最初の包括的な一連の規則である「フットボールの規則 Laws of Football」を発表した。19世紀末から使われている「サッカー soccer」という用語は「Association」の省略形に由来する。 最初のFAのルールはもはや現在のサッカーでは見られない要素をまだ含んでいたが、それらはオーストラリアンフットボールやラグビーフットボールといったその他のゲームにおいて今でも見ることができる。例えば、選手はフェアキャッチを行い「マーク」を主張することができ、フリーキックの権利を得ることができた。また、相手のゴールラインの後ろのボールにタッチした場合、タッチした側がゴールライン手前15ヤード(13メートル)からのゴールに向かってのフリーキックの権利を得た。
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フットボール・アソシエーション
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「サッカーの歴史」の記事における「フットボール・アソシエーション」の解説
詳細は「フットボール・アソシエーション#歴史」を参照 1848年、ケンブリッジ大学で初のルール策定がなされたが、これはアソシエーション・フットボールを含む後に制定される規定の発展に特に影響をもたらした。ケンブリッジ・ルールはトリニティ・カレッジで作成されたものであり、イートン校、シュルーズベリー校、ハーロー校、ラグビー校、ウィンチェスター校などの学校の代表者が出席して行われた会合で定められたものであった。彼らは統一ルールを定めたわけではなく、1850年代、様々な形式のフットボールをプレーするために、高校や大学と結びつきのない多くのフットボール・クラブが英語圏で設立された。また、独自のルールを制定して試合を行うものもおり、パブリックスクールの卒業生により1857年に設立されたシェフィールド・フットボール・クラブはその代表格であった。これにより1867年にシェフィールドサッカー協会が設立されることとなった。 1860年代前半、イングランドにおいて北部工業地帯で適用されていたシェフィールド・ルールとともに、パブリックスクールで行われていた様々なフットボールの試合のルールを統一、調整する試みが行われるようになった。1862年、オリジナルのケンブリッジルールに則って試合をするべきだとしていたアッピンガム校(英語版)の代表者J. C.スリングはシンプレスト・ゲームズと呼ばれる独自のルールを策定した(通称、アッピンガムルールズ)。1863年10月初め、ケンブリッジルールの改訂版がイートン校、シュルーズベリー校、ハーロー校、ラグビー校、マールバラ・カレッジ(英語版)、ウェストミンスター・カレッジの卒業生代表で構成される7校委員会で策定された。 ハル出身の事務弁護士であったエベニーザー・コブ・モーリー(英語版)は1863年に新聞の「ベルズライフ(英語版)」に寄稿し、フットボールの団体を作る提案を行った。モーリーはFA初代秘書 (1863-66) となり、FA第二代会長 (1867-74) となったが、彼は特に自宅のあったロンドンのバーンズ(英語版)において、今日世界中でプレーされているサッカーに関する初のサッカー競技規則の暫定案をまとめた 人物として後世にその名を残している。このため、彼は単にフットボール・アソシエーションの父というだけでなくサッカー自体の父と考えられている。 チャーターハウスはアソシエーション・フットボールを設立させるための歴史的な呼びかけを行った。この頃、パブリックスクールではフットボールは冬場の主流スポーツであった。1840年代、チャーターハウスとウェストミンスター・スクールの生徒の取り巻きは回廊でフットボールをプレーする際に制限されるという意味の発言を行い、ラグビー校のような他の学校で発展していた、ラフプレーで転倒するようなハンドリングゲームは不可能であるとし、新たなルール策定を希望していた。アソシエーション・フットボールのルール策定が行われた1860年代に、チャーターハウスとウェストミンスター校の代表者はパスゲームに対する推奨を行い、特にボール保持者の前方へとパスをすることを許すルールを策定した。その他の学校(特にイートン校、シュルーズベリー校、ハーロー校)は厳しいオフサイドルールを用いたドリブルによるゲームを好んだ。ノース・スタッフォードシャー鉄道(英語版)の見習い労働者がストーク・オン・トレントにいた1863年、チャーターハウス校の卒業生はストーク・ランブラーズというサッカークラブを設立した。1867年、フットボール・アソシエーションはチャーターハウスとウェストミンスター校の試合を好意的にとらえ、前方にパスを送ることを認める「ルーズ」なオフサイドルールを採択した。現代の前方へパスを出すことを許可するルールはチャーターハウスとウェストミンスター校の試合のルールが直接反映されたものとなっている。 1863年10月26日の夕方、グレーター・ロンドン地区の11のサッカークラブの代表がコヴェント・ガーデンのロングエーカーにあるフリーメイソンズ・アームズ(英語版)で会合を行った。これはフットボール・アソシエーション (FA) の初会合となった。FAは世界初の公式のサッカー団体であったため、団体名の前に「イングランド」という名称をつけていない。チャーターハウス校は招待参加を受け入れた唯一のパブリックスクールであった。初会合は協会に参加するパブリックスクールの代表による要望を出す場となった。アッピンガムのスリングを除いて、ほとんどの学校は加盟を断った。FAの6回目の会合は1863年10月から12月までの間に開催された。委員会メンバーのJ. F.アルコックは「ケンブリッジルールは協会による採用が最も望ましいように感じる」と述べた。 3回目の会合の後、ルール案の暫定案がFAにより出版された。しかし、4回目の会合の始まりに際し、直近であった1863年に出版されたケンブリッジルールに対する注意が呼びかけられた。ケンブリッジルールはFAの暫定案と2つの点で大きく異なっていた。一つは「ボールを持って(運んで)走る」点であり、もう一つは「ハッキング(相手の選手のすねをける行為)」であった。以下に焦点となったFAルールを示す。 IX. 選手がフェアキャッチもしくは最初のバウンドでボールをキャッチした場合、ボールを持って相手のゴールへと走る権利が与えられる。しかし、フェアキャッチの場合、選手がそのままマークのために走ることはできない。X. もし相手のゴールに向かいボールを手で持って走りだした選手がいた場合、相手の選手は彼からボールを奪い取るためにチャージ、ホールド、トリップ、ハックする自由を有する。しかし、同時にホールドやハックする行為は認められない。 5回目の会合において、これら2つのルールがFAルールから除去することが提案された。ほとんどの代表者がこの提案を支持したが、ブラックヒースFCの代表者でありFA初代会計であったF. W.キャンベルは強硬に反対した。彼は「ハッキングは真のフットボールである。」といった。これにもかかわらず提案は実行され、最終会合において、キャンベルは彼のクラブをFAから撤退させた。12月8日に行われた最終会合の後、FAは「サッカーの規則」を出版した。これは後にアソシエーション・フットボールとして知られるゲームの初の包括的なルールセットとなった。そして、これにより「サッカー」と「ラグビー」は完全に別の競技として袂を分かつこととなった。同時期にラグビールールによるフットボールを行なっていた人々が短縮形で「ラガー」と呼んでいたように「アソシエーション」の短縮形として「サッカー」と呼ばれていたこの球技は、イングランドのフットボールという球技において中心的な存在となり、サッカーよりもフットボールと呼ばれることが増えていった。また、「サッカー」は今日アソシエーション・フットボール以外のフットボールが盛んな国々において、アソシエーション・フットボールを指す一般的な用語として使用されている。 これらの初のFAルールは依然としてその他のフットボール(ラグビー、オージーフットボール)であると認識されるような、アソシエーション・フットボールではない要素を含んでいた。例えば、選手はフェアキャッチをしてマークを宣言することができるというルールである。これはフリーキックという名称を付けられていた。また、選手が敵のゴールラインより向こう側でボールに手で触れた場合、ゴールライン手前15ヤードからゴールへの「フリーキック」が与えられるルールもあった。 FAのメンバーにより承認されたサッカー競技規則はピッチの最大の横幅と縦幅、キックオフの手順、ゴールやスローイン、オフサイドなどの用語の定義に関して規定していた。ボールを手でパスすることは依然として認められており、ボールを「正しく1バウンドで」捉えることが要求された。足に装着するものの規定として「先の尖った釘、鉄板、ガタパーチャ」を使用してはならないという規定があったにもかかわらず、選手の数、罰則、ファウル行為、ボールの形状に関する特別な規定は存在せず、ボールのサイズや重さなどの形状が標準化されるまでにはさらに9年を要することとなった。それまでの間、参加チームの代表はこれらの規定に関して試合前に合意を持つことが想定されていた。また、ゴールキックは1869年に、コーナーキックは1872年に、試合のキックオフの際に主審が笛を吹いて開始とするルールは1878年に導入される といったように1863年のルール制定後も度々ルールが追加された後、1891年には当時「the kick of death」と呼ばれた、ペナルティーエリア内で反則を犯した場合に与えられるペナルティーキック(PK)が導入されることとなった。また、この際不満が起きないよう双方のチームからアンパイアを出すこととなったが、これは後にラインズマン、そして現代の副審へと発展していくこととなった。
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