チワン学の開拓
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チワン族が宋代以来主に撞、僮、獞などと呼ばれ、中華人民共和国の成立前には、チワン族が中国の少数民族として、長期的な民族差別を受けた。中華人民共和国成立後は僮族に統一されたが、僮には「わらべ」、「しもべ」などの差別的な意味があるため、1965年に壮族と改称された[日本では壮族(そうぞく)とも言うが、一般的には漢字を使わず、チワン族と呼ぶ]。こうした時代を背景に、チワン族出身の黄現璠は、広西チワン族自治区で歴史的に蓄積されてきたチワン族の言語、民俗、文化を研究、考証し、主に漢民族の文化との対比を通じて、その学問的意義を論証する研究分野を開拓し、漢民族に対する自己認識の確立を促した。黄現璠は、1951年から1981年まで何度も学術の田野調査組を組織し、学生に連れて、黔桂(貴州省と広西省の略語)二省の少数民族の地区に入って、広範な学術の調査の活動を展開し、大量貴重な史料を獲得した。黄現璠は、これらの調査史料と歴史的な資料に基づき、1957年に『広西大新チワン族調査資料』(同じ年2月に広西少数民族社会歴史調査グループから出版された)と『広西チワン族略史』(同じ年6月に広西人民出版社から出版された)を書いた。黄現璠はその著述の中で、チワン族意識を推進する一方で、学問的には「文化相対主義」と呼ばれる観点を提唱している。一般にチワン学の学問史或は学科史は、この黄現璠の『広西大新チワン族調査資料』と『広西チワン族略史』の両書が出版された1957年を境にして、「チワン学」という独立した分野を確立とし、チワン学発展のための刺激にもなった。従って、黄現璠は、チワン族歴史上の最初の歴史書『広西チワン族略史』を著したことによって「チワン学の父」とも呼ばれる。 また、一方でこれらの調査に基づき、黄現璠を代表とする「黄派」(「八桂学派」の開拓性支派、その成員の中の大部分が広西師範学院教授であり、そして全部で黄現璠の学生或は弟子である)が徐々に形成した。この「黄派」の姿勢は古文献を基に漢民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、黄現璠らはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。この黄派では、文化相対主義の概念を用いて、包含的なアプローチを取り、チワン族の歴史や原始社会制度、言語、文学、民俗、物質文化と言った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当て、チワン族の固有歴史と文化を記述することに専念し、チワン学研究を進めた。1958年には広西師範学院(後に広西師範大学に改名)に最初の「チワン学」学科が設立されている。 黄現璠のチワン学研究は今日、中国国内におけるチワン族のあるべき地位を論考し、提唱する民族平等の思想的根幹として確立され、現在に至っている。黄現璠がチワン族の固有歴史と文化の論拠を求めた学問は、現代の最重要著述『広西チワン族略史』の研究にはじまり、歴史学、文化人類学(民族学)、言語学、人種学、宗教学、神話学、考古学、民俗学、文学などと多岐に渡る。学際研究が重要視される近年の諸科学の趨勢に鑑みるに、黄現璠のこのような研究は、総合科学の先駆をなすものとして再評価する向きがある。(黄現璠の学問の詳細は、黄現璠、八桂学派と無奴学派の項を参照のこと)
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