チワン学の開拓とは? わかりやすく解説

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チワン学の開拓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 00:59 UTC 版)

チワン学」の記事における「チワン学の開拓」の解説

チワン族宋代以来主に撞、僮、獞などと呼ばれ中華人民共和国成立前には、チワン族中国の少数民族として、長期的な民族差別受けた中華人民共和国成立後は僮族に統一されたが、僮には「わらべ」、「しもべ」などの差別的な味があるため、1965年壮族改称された[日本では壮族そうぞく)とも言うが、一般的には漢字使わずチワン族と呼ぶ]。こうした時代背景に、チワン族出身黄現璠は、広西チワン族自治区歴史的に蓄積されてきたチワン族言語民俗文化研究考証し、主に漢民族文化との対比通じて、その学問的意義論証する研究分野開拓し漢民族対す自己認識確立促した黄現璠は、1951年から1981年まで何度も学術田野調査組を組織し学生に連れて、黔貴州省広西省略語)二省の少数民族地区入って広範な学術調査活動展開し大量貴重な史料獲得した黄現璠は、これらの調査史料と歴史的な資料に基づき1957年に『広西大新チワン族調査資料』(同じ年2月広西少数民族社会歴史調査グループから出版された)と『広西チワン族略史』(同じ年6月広西人民出版社から出版された)を書いた黄現璠はその著述の中で、チワン族意識推進する一方で学問的には「文化相対主義」と呼ばれる観点提唱している。一般にチワン学学問或は学科史は、この黄現璠の『広西大新チワン族調査資料』と『広西チワン族略史』の両書が出版され1957年を境にして、「チワン学」という独立した分野確立とし、チワン学発展のための刺激にもなった。従って、黄現璠は、チワン族歴史上最初の歴史書『広西チワン族略史』を著したことによって「チワン学の父」とも呼ばれるまた、一方でこれらの調査に基づき黄現璠を代表とする「黄派」(「八学派」の開拓支派、その成員の中の大部分広西師範学院教授であり、そして全部黄現璠学生或は弟子である)が徐々に形成した。この「黄派」の姿勢古文献を基に漢民族中心主義的な理論化行った進化主義への反発から来ていると言われ黄現璠らはこのような進化主義立場抗してそれぞれの文化それぞれの価値において記述評価されるべしであると言う文化相対主義主張した。この黄派では、文化相対主義概念用いて包含的なアプローチ取りチワン族歴史原始社会制度言語文学民俗物質文化と言った多様な要素からなる広義文化焦点当てチワン族固有歴史と文化記述することに専念しチワン学研究進めた1958年には広西師範学院(後に広西師範大学改名)に最初の「チワン学学科設立されている。 黄現璠チワン学研究今日中国国内におけるチワン族あるべき地位論考し、提唱する民族平等の思想的根幹として確立され、現在に至っている。黄現璠チワン族固有歴史と文化論拠求めた学問は、現代最重要著述広西チワン族略史』の研究はじまり、歴史学文化人類学民族学)、言語学人種学宗教学神話学考古学民俗学文学など多岐に渡る。学際研究重要視される近年の諸科学趨勢鑑みるに、黄現璠このような研究は、総合科学先駆をなすものとして再評価する向きがある。(黄現璠学問詳細は、黄現璠、八学派無奴学派の項を参照のこと)

※この「チワン学の開拓」の解説は、「チワン学」の解説の一部です。
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