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アンゴラ 0 [angora]
アンゴラ [Angola]
羊の種類 |
アンゴラ
【英】:Angraモヘア(アンゴラ山羊)のように長く白い毛が育つことから「アンゴラ・ラビット」と名づけられた兎。
フランスを中心にチェコ、ドイツ、中国、日本などで飼育されている。その毛は手触りがやわらかく、軽く、パステルカラーの発色が良い。ニットに向く。
ウィキペディア |
アンゴラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/26 20:28 UTC 版)
- アンゴラ共和国
- República de Angola
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(国旗) (国章) - 国の標語: 不明
- 国歌: 進めアンゴラ!

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公用語 ポルトガル語 首都 ルアンダ 最大の都市 ルアンダ 独立
- 日付ポルトガルより
1975年11月11日通貨 クワンザ(AOA) 時間帯 UTC +1(DST: なし) ISO 3166-1 AO / AGO ccTLD .ao 国際電話番号 244
アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制国家。東にザンビア、南にナミビア、北にコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面している。コンゴ民主共和国を挟んで飛地のカビンダが存在し、カビンダは北にコンゴ共和国と国境を接する。首都はルアンダ。
旧ポルトガル植民地であり、1961年から独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1975年から2002年まで内戦が続いたが、内戦終結後は石油やダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に急激な経済発展を続けている。しかし、1000万を越える敷設地雷や首都ルアンダの物価が世界一高い[2]など課題も多い。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国であり、アフリカ最大のポルトガル語人口を擁する国である。
目次 |
国名
正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(レプブリカ・デ・アンゴーラ)。通称、Angola。日本語にするとアンゴーラが近い。
公式の英語の名称は、Republic of Angola(リパブリック・オブ・アンゴラ)。通称、Angola(アンゴラ)。
日本語の表記は、アンゴラ共和国。通称、アンゴラ。漢字による当て字は諳喀剌。国名はかつてこの地を支配していたンドンゴ王国の王号ンゴラに由来する。独立時の1975年から1992年までは正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国となった。
歴史
詳細は「アンゴラの歴史」を参照
この地域には、1世紀頃から主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。14世紀に現アンゴラ北部に居住していたコンゴ人はコンゴ王国を建国し[3]、コンゴ王国は現アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴを建設した。
ポルトガル植民地時代
1482年にポルトガル人ディオゴ・カンがコンゴ川河口に到着し、1485年にカンはコンゴ王ンジンガ・ンクウとの間に両国の対等な立場の下でコンゴ王国とポルトガル王国の国交を結んだ[4]。1506年に即位したアフォンソ1世の時代にコンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、アフォンソ1世は首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと改名した[5]。その後ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていた銀の供給源とみなし[6]、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスが翌1576年にルアンダを建設した後、ポルトガルはルアンダを拠点に更なる奴隷の供給を求めて徐々にアンゴラ内陸部に進出していった[7]。以降アンゴラはブラジルやウルグアイ、アルゼンチン、キューバなど南米や西インド諸島への黒人奴隷供給地となった。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、三百万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された[8]。ポルトガル支配に対し、ンドンゴ王国やマタンバ王国は激しい抵抗を繰り広げた。特に1623年に権力を握ったンジンガ女王は数十年に渡って反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあったオランダと同盟してポルトガルと戦ったが、最終的にサルヴァドール・コレイア・デ・サ率いるポルトガル領ブラジルから派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利したことによって、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ[9][10]。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年のハーグ講和条約で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとブラジル北東部領有を国際的に認められた[11]。一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走してブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ(脱走奴隷集落)を築いた[12]。
1884年から1885年のベルリン会議の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶ「バラ色地図」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策はカイロからケープタウンまでアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビア、マラウイ、ジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領アンゴラはほぼ現在のアンゴラの形に再編された[13]。20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスやベルギーの資本により、植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社によりベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。
第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がアンゴラにも押し寄せた。アントニオ・サラザール政権は1951年にアンゴラ等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。アンゴラやモザンビークは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、アンゴラには5,000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。
しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、アンゴラでは1961年2月4日に、アゴスティーニョ・ネト、マリオ・ピント・デ・アンドラーデによって率いられたアンゴラ解放人民運動 (MPLA) が政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃し、アンゴラ独立戦争が始まった。同年3月に北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ国民解放戦線 (FNLA) の前身であるアンゴラ人民同盟も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後に、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) を分離した。1960年代を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末に、ポルトガル本国で1974年に勃発したカーネーション革命により、独立三派の紆余曲折を経てMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。
独立と内戦
詳細は「アンゴラ内戦」を参照
しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線 (FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) 連合がウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し、独立直後から、キューバ(直接介入)とソ連が支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) と、南アフリカ共和国(直接介入)とアメリカ合衆国が支援するUNITA、ザイール(直接介入)とフランスが支援するFNLA連合の間で内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAは首都ルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、しかし、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き上げや、戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。
1979年9月、ネト議長が死去し、第2代大統領にジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任。アンゴラ政府はソ連やキューバなど社会主義陣営との結びつきを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかし、この間もUNITA/FNLAとの内戦(アンゴラ内戦)が続いたため、多くの人命が失われ、経済は疲弊。さらに戦闘や地雷で負傷してしまった人々も多く発生した。アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国(アパルトヘイト時代)とキューバ(カストロ政権)の直接介入を受けていたことから、東西冷戦の代理戦争と言われている。
FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカとキューバも1988年に南アフリカがクイト・クアナヴァレの戦いでアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が集結を迎う国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定に調印。しかし1992年の大統領選および議会選をめぐる対立から再び内戦に突入した。国連の仲介で1994年11月に和平が成立したが、1998年に武装解除に抵抗したUNITAの再蜂起により内戦が再燃した。
ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAはダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けたが(紛争ダイヤモンド)、2002年2月にサヴィンビ議長は戦死し、和平機運が高まったため、3月15日に双方は休戦で合意した。4月4日に休戦協定が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれた。
内戦終結以降
2002年に内戦が終結すると、飛地のカビンダを除いた全土で1961年以来はじめての恒久的な平和がアンゴラに築かれた。内戦終結後、ダイヤモンドや石油の輸出によってアンゴラ経済は急速に拡大しており、周辺国との友好も続いている。しかし、世界一ともいわれる地雷の敷設や政権の腐敗など、課題は多い。
2010年1月には当地で開催されるサッカーの国際大会アフリカネイションズカップ2010出場の為に訪れていたトーゴ代表一行が乗ったバスを、カビンダの反政府勢力が襲撃し、チーム関係者3名が死亡、選手も含めた数名が負傷する事件が起きた。このため、トーゴ代表は出場辞退した。
2010年8月9日、政府の地雷除去委員会は、2006年から今年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であることを明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発であるといわれている。
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- ^ 青山森人「アンゴラ人でしか書けないアンゴラの根っこ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社、1997/05
- ^ 日本語未訳のため、葡語のタイトルから独自に訳した
- アンゴラでサッカーのトーゴ代表が襲撃される、10人死傷ロイター
- アンゴラでのベトナム人の不法就労が増加VIETJO
- アンゴラでのW杯招致活動中止:その他:サッカースポーツ報知
アンゴラに関連した本
- アンゴラ内戦と国際政治の力学 青木 一能 芦書房
- アンゴラの白い雇い兵 (1977年) ラウル・バルデス・ビボ 恒文社
- SAS/アンゴラ独立前夜 (1981年) (創元推理文庫―プリンス・マルコ・シリーズ〈26〉) ジェラール・ド・ヴィリエ 東京創元社
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