アンゴラ アンゴラの概要

アンゴラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/01 17:05 UTC 版)

アンゴラ共和国
República de Angola
アンゴラの国旗 アンゴラの国章
国旗 (国章)
国の標語:不明
国歌進めアンゴラ!
アンゴラの位置
公用語 ポルトガル語
首都 ルアンダ
最大の都市 ルアンダ
政府
大統領 ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
首相 なし(廃止)
面積
総計 1,246,700km222位
水面積率 極僅か
人口
総計(2012年 20,820,000人(???位
人口密度 15人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 6兆2,565億[1]クワンザ
GDP(MER
合計(2008年 833億[1]ドル(75位
GDP(PPP
合計(2003年 1,064億[1]ドル(103位
1人あたり 6,331[1]ドル
独立
 - 日付
ポルトガルより
1975年11月11日
通貨 クワンザAOA
時間帯 UTC +1(DST:なし)
ISO 3166-1 AO / AGO
ccTLD .ao
国際電話番号 244

ポルトガル植民地であり、1961年からアンゴラ独立戦争英語版を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1975年から2002年まで内戦が続いたが、内戦終結後は石油ダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に急激な経済発展を続けている。しかし、1000万を越える敷設地雷や首都ルアンダの物価が世界一高い[2]など課題も多い。ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国であり、アフリカ最大のポルトガル語人口を擁する国である。

国名

正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(レプブリカ・デ・アンゴーラ)。通称、Angola。日本語にするとアンゴーラが近い。

公式の英語の名称は、Republic of Angola(リパブリック・オブ・アンゴラ)。通称、Angolaアンゴラ)。

日本語の表記は、アンゴラ共和国。通称、アンゴラ。漢字による当て字は諳喀剌。国名はかつてこの地を支配していたンドンゴ王国英語版の王号ンゴラ(: Ngola)に由来する。独立時の1975年から1992年までは正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国となった。

歴史

この地域には、1世紀頃から主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。

コンゴ王国時代

14世紀に現アンゴラ北部に居住していたコンゴ人コンゴ王国を建国し[3]、コンゴ王国は現アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴを建設した。

ポルトガル植民地時代

ルアンダポルトガル人総督との和平交渉に臨むンドンゴ王国英語版マタンバ王国英語版ンジンガ女王英語版(1657年)。ンジンガ女王を見下していたポルトガル人は女王のために椅子を用意しなかったため、側近が椅子に代わって対等の立場での交渉を繰り広げた。ンドンゴ王国はポルトガル人に敗れたが、ンジンガ女王は今日も多くのアンゴラ人とアフリカ系ブラジル人の抵抗の象徴となっている。

1482年ポルトガル人ディオゴ・カンコンゴ川河口に到着し、1485年にカンはコンゴ王英語版ンジンガ・ンクウとの間に両国の対等な立場の下でコンゴ王国ポルトガル王国の国交を結んだ[4]。1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代にコンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語サン・サルヴァドールと改名した[5]。その後ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていたの供給源とみなし[6]、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスポルトガル領アンゴラ英語版1575年1975年)を、翌1576年にルアンダを建設した後、ポルトガルはルアンダを拠点に更なる奴隷の供給を求めて徐々にアンゴラ内陸部に進出していった[7]

以降アンゴラはブラジルウルグアイアルゼンチンキューバなど南米西インド諸島への黒人奴隷供給地となった。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、三百万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された[8]。ポルトガル支配に対し、ンドンゴ王国英語版マタンバ王国英語版は激しい抵抗を繰り広げた。1622年en:Battle of Mbumbi。特に1623年に権力を握ったンジンガ女王英語版は数十年に渡って反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあったオランダ[9]と同盟してポルトガルと戦ったが、最終的にサルヴァドール・コレイア・デ・サポルトガル語版率いるポルトガル領ブラジル英語版から派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利したことによって、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ[10][11]。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年のハーグ講和条約英語版で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとオランダ領ブラジル英語版(現ブラジル北東部)領有を国際的に認められた[12]

一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走して逃亡奴隷(マルーン)となり、ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ英語版(逃亡奴隷集落)を築いた[13]1695年パルマーレスの戦いポルトガル語版で滅ぼされたブラジル最大の逃亡奴隷国家は、キロンボ・ドス・パルマーレスポルトガル語版と呼ばれる。1665年アンブイラの戦い英語版をきっかけにen:Kongo Civil War1665年1709年)が始まる。

1884年から1885年のベルリン会議でのアフリカ分割の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶ「バラ色地図ポルトガル語版」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策はカイロからケープタウンまでアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビアマラウイジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領アンゴラ英語版はほぼ現在のアンゴラの形に再編された[14]。20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスベルギーの資本により、植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング英語版社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社(: Tanganyika Concessions Ltd.)によりベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。

アンゴラ独立戦争

アンゴラ独立戦争英語版を戦うポルトガル軍。1961年から10年以上続いた各植民地での独立戦争は、ポルトガルと植民地の双方を大きく疲弊させた。

第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がアンゴラにも押し寄せた。アントニオ・サラザール政権(エスタド・ノヴォ)は1951年にアンゴラ等のアフリカ植民地を「海外州」(: Província Ultramarina de Angola, : Overseas Province of Angola)と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。アンゴラやモザンビークは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、アンゴラには5,000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。

しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、アンゴラでは1961年2月4日に、アゴスティーニョ・ネトマリオ・ピント・デ・アンドラーデによって率いられたアンゴラ解放人民運動 (MPLA) が政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃し、アンゴラ独立戦争英語版ポルトガルの植民地戦争)が始まった。同年3月に北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ人民同盟(UPA、: União das Populações de Angolaアンゴラ国民解放戦線 - FNLA の前身)も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後に、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) を分離した。1960年代を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末に、ポルトガル本国で1974年に勃発したカーネーション革命により、独立三派の紆余曲折を経てMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。

アンゴラ内戦

しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線 (FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) 連合がウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し、独立直後から、キューバ(直接介入)とソ連が支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) と、南アフリカ共和国(直接介入)とアメリカ合衆国が支援するUNITA、ザイール(直接介入)とフランスが支援するFNLA連合の間で内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAは首都ルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、しかし、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き上げや、戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。

アンゴラ内戦の構図。アンゴラ内の赤はMPLA政府支配地域。アンゴラ内の青と赤の斜線は南アフリカ=UNITA連合軍の最大介入地域。

1979年9月、ネト議長が死去し、第2代大統領ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任。アンゴラ政府はソ連やキューバなど社会主義陣営との結びつきを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかし、この間もUNITA/FNLAとの内戦(アンゴラ内戦)が続いたため、多くの人命が失われ、経済は疲弊。さらに戦闘や地雷で負傷してしまった人々も多く発生した。アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国アパルトヘイト時代)とキューバカストロ政権)の直接介入を受けていたことから、東西冷戦代理戦争と言われている。

FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカとキューバも1988年に南アフリカがクイト・クアナヴァレの戦い英語版でアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が集結を迎う国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定(en:Bicesse Accords)に調印。

しかし1992年の大統領選および議会選をめぐる対立から再び武力衝突に突入した。1994年10月31日国連の仲介でen:Lusaka Protocolが締結され和平が成立したが、アンゴラゲート英語版と呼ばれるフランスによるアンゴラ反政府勢力への武器密輸スキャンダルからUNITAの武装解除に失敗した。

1997年5月、アンゴラ政府軍がザイールに出兵(第一次コンゴ戦争1996年11月 – 1997年5月)。1998年にUNITAの再蜂起により第二次コンゴ戦争が再燃した。ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAはダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けた(紛争ダイヤモンド)。

2002年2月にUNITAのサヴィンビ議長は民間軍事会社(PMC)の攻撃で戦死し、和平機運が高まったため、3月15日に双方は休戦で合意した。4月19日休戦協定en:Sun City Agreement)が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれ、飛地のカビンダカビンダ共和国英語版)を除いた全土で1961年以来はじめての恒久的な平和がアンゴラに築かれた。内戦終結後、ダイヤモンドや石油の輸出によってアンゴラ経済は急速に拡大しており、周辺国との友好も続いている。しかし、世界一ともいわれる地雷の敷設や政権の腐敗など、課題は多い。2010年8月9日、政府の地雷除去委員会は、2006年から今年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であることを明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発であるといわれている。

カビンダ紛争

2010年1月には当地で開催されるサッカーの国際大会アフリカネイションズカップ2010出場の為に訪れていたトーゴ代表一行が乗ったバスを、カビンダの反政府勢力カビンダ飛び地解放戦線ポルトガル語版(FLEC)=カビンダ軍ポルトガル語版(FAC)が襲撃し、チーム関係者3名が死亡、選手も含めた数名が負傷する事件が起きた。このため、トーゴ代表は出場辞退した。




[ヘルプ]
  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
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  4. ^ 川田順造編 『新版世界各国史10──アフリカ史』 山川出版社、2009年8月。pp.285-286
  5. ^ 小田英郎 『世界現代史15──アフリカ現代史III』 山川出版社、1991年9月第2版。p.27。
  6. ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳 『ポルトガル2──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.86。
  7. ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳 『ポルトガル2──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.86-87。
  8. ^ 福井英一郎編『世界地理10 アフリカII』朝倉書店、1998年。p.136。
  9. ^ オランダオランダ領ブラジル (Dutch Brazil1630年1654年)の利権でポルトガルと対立していた。
  10. ^ 岡倉登志 『アフリカの歴史──侵略と抵抗の軌跡』 明石書店、2001年1月。p.22-24。
  11. ^ ボリス・ファウスト/鈴木茂訳 『ブラジル史』 明石書店、2008年6月。p.66。
  12. ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.75-76。
  13. ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.62-63。
  14. ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。
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  28. ^ http://books.google.com/books?id=DeVqVy21g9sC&pg=PA40&lpg=PA40&dq=presbyterian+church+in+angola&source=bl&ots=3KbFI1zxSt&sig=vzJ0gD-4N2h0KgEIN9E8SebEh34&hl=en&ei=UnqKSsi_GoWwswPK_4XTDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1
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  35. ^ a b c 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月
  36. ^ 青山森人「アンゴラ人でしか書けないアンゴラの根っこ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社、1997/05
  37. ^ 日本語未訳のため、葡語のタイトルから独自に訳した


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